見出し画像

「色欲」とは

1年くらい前から気になっていたこのテーマ。
というのも、「色欲」と聞くと、どうしてもセクシャルな話題だと捉えられがちだけれども、そうではないと知って、「これって私が知りたいと思ってた領域じゃない…?」と気づいたから。
セクシャルな意味じゃないの…?と思った人にも朗報。そのあたりの話にもこの後触れていくから、よかったら読み進めてみてほしい。

「色欲」にまつわるイメージ

男女の性的な欲望。情欲。

大辞林

みなさんも辞書の意味と同じように捉えてるんじゃないでしょうか。
実際、「色欲」と検索すると、性的な欲望にまつわる解説や、「性欲」というワードもたくさん見かけます。
では、英語ではどうでしょうか。

very strong sexualdesire, especially when it does not include love

Longman Dictionary

『特に愛のない状況における強い性的欲求』
うーん、日本語の辞書と同じようなことが書かれています。
ところがですね…

Lust is a psychological force producing intense desire for something, or circumstance while already having a significant amount of the desired object.[citation needed] Lust can take any form such as the lust for sexuality (see libido), money, or power.

wikipedia

Wikipedia先生、どこから取ってきた情報なんですかね。

『色欲とは、すでに望むものをたくさん持っているにも関わらず、物や状況に対して強い切望を生み出す心理的な力のこと。また、その形に関わらず、性、お金、力など、切望するものはそれぞれである。』

と書かれていました。

これを見ると、「性」は色欲の一部に過ぎないという印象を受けます。

他のところでは、辞書でさえ「色欲は性的な欲求だ」と言っているのに、英語版のWikipediaでは随分と幅広い解釈をしているのが気になりました。

Question

では、色欲が性的な欲求にせよ、性的な欲求を含むあらゆるものに対する強い切望にせよ、どこからこのような解釈が生み出されたのでしょうか。

この結論に至るためには、なぜ「色欲=性的な欲求」という誤解(イメージ)が生まれたのか?から紐解く必要がありそうです。

キリスト教の聖書とその語源(ギリシャ語)を遡る

日本語の「色欲」という言葉の語源を調べると、キリスト教の教えと共にこの言葉が入ってきた、とあります。では、キリスト教でいう「色欲 / lust」とは、聖書中で一体どのように説かれているのでしょうか。

有名な聖書の一説にこのようなものがあります。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである

Ye have heard that it was said by them of old time, Thou shalt not commit adultery:
But I say unto you, That whosoever looketh on a woman to lust (πιθυμέω) after her hath committed adultery with her already in his heart.

マタイによる福音書5:27-28

聖書の出版社によって、少しずつ言葉遣いが違うのですが、ここで言う「情欲」が「色欲」にあたります。
私自身、幼稚園、中学校、高校、大学と、カトリックのミッションスクール育ちなこともあり、とても馴染みの深い聖書の一節であることを知っています。キリスト教に馴染みのある人なら、誰もが知っていると言っていいほど、有名で、インパクトのある一節です。
このフレーズから、「lust(色欲)とは、性的な欲求のことだ」という印象が人々に焼きついたのは想像のつくところだと思います。

しかし、この "lust"と言う単語、語源となるギリシャ語では、”ἐπιθυμέω”と書くそうですが、意味は「あるものに心を寄せる、憧れる、切望する、欲望する」とあり、別に性的なものに限定されるという表現ではないわけです。
さらに、この”ἐπιθυμέω”という単語が使われている、聖書の別の一節もありました。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない

You shall not covet your neighbour's wife; you shall not covet your neighbour's house or his field or his male slave or his female slave or his ox or his draft animal or any animal of his or whatever belongs to your neighbour.

出エジプト記20:17

ギリシャ語から英語に訳される際にlustではなく、covetという単語に変換されていますが、元々はどちらも”ἐπιθυμέω”というギリシャ語が使われていたそうです。他にもこの単語が使われている聖書の節はいくつもありますが、ここでは割愛します。
重要なのは、πιθυμέω”という、「色欲 / lust」の語源、またその語源から訳された聖書の節において、性的な欲求に限定して使われているわけではない。ということです。

「不安」についてのプレゼンとの体感差

本題とはズレますが、このようにリサーチを進める中で、実はとても困ったことがありました。
以前、「不安」をテーマにプレゼンをした際、文献も多く、また「不安」という感情は、脳や人間の「認知」という、機能的な側面が強く影響していたこともあり、情報の整理にこそ苦労しましたが、理解したものを自分に落とし込んでいく作業は、自然と行うことが出来たのです。

ところが、「色欲」ときたら、ネットで検索すれば卑猥なものが出てくるし、解説しているかと思えば、前述した「色欲というワードに対するイメージ」に引っかかったものばかりが出てきて、実際のところそれが一体なんなのか?そして、7つの大罪とも言われるこの色欲を、私たち人間がどう捉え、どう乗り越えれば良いのか?そこに辿り着く道すべが、外側の世界にはない。と感じたのです。

つまり、割とすぐに行き詰まりました。笑

「不安」での調べごととは感触が全く違い、「色欲」に関して言えば、情報より先に体感が動く感じがしていて、この言葉にならないモヤっとした、けれども確かにある「健全ではない欲(執着)」を、一体どうしたものか…?と思っていました。

そこで、発表パートナーのtomoさんに声をかけ、一旦話し合ってみることにしました。
話し合ったところ、半ば興奮気味に、tomoさんを置いてけぼりにする勢いで…(笑)、私の中で色々なことが腑に落ちていきました。

「色欲」の正体と、その向き合い方

「色欲」とは

パスワークガイドレクチャーによると、こう書かれています。
日本語はありませんが、英語版は無料で一般公開されています。
全文が読みたい方は、英語、またはDeep Lの機械翻訳でどうぞ。笑

第三の大罪は「色欲」である。欲望はしばしば誤解される。それは性欲のことだと思われているが、必ずしもそうではない。
さて、色欲とは何を意味するのか?色欲とは、情熱的な欲望を意味する。
性欲と関係があろうとなかろうと、自己中心的あるいは孤立的な精神に溺れた、あらゆる種類の情熱的な欲望を意味する。
孤高の精神に溺れた欲望のことである。それは、真の相互性の精神のない、「手に入れたい、手に入れたい」という子供じみた態度である。
人は、自分が望むものを受け取るのであれば、喜んで与えるかもしれない。
しかし、基本的な強調点は、相互性よりもむしろ自己に微妙に置かれている。真の相互性は、以下の能力なしには成り立たない。
真の相互性は、放棄する能力、そして常に自分の思い通りにならないことを許容する能力なしにはありえない。挫折に耐え、自分の意志を放棄する成熟は、真の相互性の前提条件である。受け取りたいという欲求が本質的に利己的な貪欲な力である場合、人は色欲を語ることができる。

The third cardinal sin is LUST. Lust is so often misunderstood. It is believed to refer to sexuality, but this is not necessarily so. Now, what does lust mean? It means any kind of passionate desire, whether or not it has to do with sexuality, which is indulged in a spirit of egocentricity or isolation. It is the childish attitude of "I want to have, to get," without a true spirit of mutuality. One may be willing to give, provided one receives what one wants, and yet the basic emphasis is placed subtly on the self, rather than on mutuality. True mutuality is not possible without the capacity to relinquish, and to tolerate not always having one's own way. The maturity to withstand frustration and to relinquish one's will is a prerequisite for true mutuality. When the need to receive is a greedy force that is intrinsically selfish, then one can speak of lust.

https://pathwork.org/lectures/the-seven-cardinal-sins/

先ほどの英語版Wikipediaでもそうでしたが、やはり「色欲」とは、 必ずしも性的な欲求というわけではない、と明示されています。

簡潔に言うと、

色欲とは、子供じみた欲求や執着のこと。

であると理解しました。

皆さんにもないですか?
私には実はたくさんあります。

私は楽器や音楽が好きなのですが、機材にも興味関心が強くあります。
「ああ、このオーディオインターフェイスを電子ピアノに繋いだら、きっと今よりいい音で音声配信ができるんだろうな。ああ、欲しい…欲しい…!!」

そうして、少しお高めのオーディオインターフェイスを手に入れても、
「せっかくなら声も綺麗に届いたらいいよね。ああ、今度は音質のいいマイクが欲しい…嗚呼…!!欲しい!!!」

このように、欲がつきません。
そして、この欲は、手に入れるまで執着し、手に入れたら入れたで、また新しい標的を見つけては「欲しい」と騒ぐのです。

これには流石に、「Shopaholic(買い物中毒)だな…」と、病気じみた自分の欲しがるクセには手を焼いていました。


かと思えば、本当にやりたいと思っていることには手が出せないのです。

「いつか古民家を借りて、子どもが遊ぶスペースと、パパママがお仕事できるスペースを両立させて、協力し合えるシェアリングエコノミーをつくるんだ!」
「英語教育を根底から覆す、意識から変容させる新しいコンテンツを完成させて、世に出したい!」

こうした自分の望みに対しては、足取りの重いこと…。
一歩も進まないのです…。

これらの「欲しい」に、一体どんな差があるというの?
というのが、私の最初の疑問でした。

私の中でわかっていたのは、女性性・男性性の歪み方の違いが、行動に差を生んでいるということでした。

手に入れるまで欲しいと騒ぐ執着は、
「欲しい」をそのままにしておけない女性性
手に入れるまで求め進み続ける男性性

手に入れたいはずなのに一向に動けない「欲しい」には、
「やりたい」ワクワクを無視する女性性
エゴの声(めんどくさい)を優先して、やろうとしない男性性

この二つは、欲に対して「動きすぎる」「全く動こうとしない」という対極の現象となって現れていますが、ということは同時に、核となっている共通の問題があるからこそ、こうした歪みが起きるのではないか?と考えました。

「いらないかな。って思ったんだよね」 by tomoさん

そんな男性性・女性性について、パートナーのtomoさんと話していて、「こういう執着を手放せた成功体験ってある?」という疑問を投げてみました。
tomoさんは、キラキラしたものが似合うし、そういうものが好きな印象があったのですが、デパートであるお店に入った時に、「いらないかな」って思った瞬間がある。と話していて、その時のエネルギーが私にはビビっときました。

tomoさんが自分に対してかけていたイメージがハラリと取れたのを、私は知覚したんです。

その時のエネルギーの動きを、スローダウンしてトレースしていくと、本当に面白くて、このことが、「色欲」のメカニズムと、どのようにしてそれを外して行けばいいのか?という解決策につながっていくことになりました…。

イメージ・エゴ・意識

意識

私たちは、顕在意識、潜在意識、無意識と呼ばれる、様々な意識の領域を持っています。自分の内側に意識を向ければ向けるほど、より深く広い領域とつながっていくことができます。
私たちが持つ「創造性」は、私たちのコア(センター)にある「宇宙=意識世界」から来ていると私は認識しています。
最初はとても小さなこの創造性の衝動(impulse)を受け取り、そして疑うことなくそれに従うことで、私たち一人ひとりのオリジナルな創造が、この世に生み出されています。
ところが、この衝動に抵抗することが出来るのが人間です。
図の示す「EGO(エゴ)」がそれにあたります。潜在意識・顕在意識です。
半ば無意識に、ふわっと湧いてくる小さな衝動をなき物にしたり、別のものにすり替えたりしてしまいます。なぜでしょうか。
私は、この「色欲」をテーマに自分の内側を探求するうちに、「人は皆、幸せや喜びを求めているからだ」と感じるようになりました。

矛盾していますよね。
上がってくる感覚を止めて、幸せへのショートカットとも言える衝動を無視しておきながら、「幸せを感じたい」だなんて。
でも、エゴをもう少し理解すれば、何か見えてくるかもしれません。

イメージ・エゴ

エゴは、大抵の場合、私たち人間が「これが私」と認識している自分とほぼイコールです。
赤ちゃんの頃から今までの人生で、たくさんのものを見聞きし、体験する中で、嬉しかったこと、悲しかったこと、学んできたことが全て集約されています。
そして、それは良くも悪くも、私たちを模って(かたどって)います。

画像の中では、3つの問いを挙げてみました。
どれも、エゴが信じているトラップです。
よかったらこれを読みながら、書き出してみてください。

① What is my need? 私の望み(ニーズ)は何?
② What makes me happy? 何があれば私は幸せになれる?
③ Which way is safer? どちらに行けばより安全?

Nao

どうですか?書けましたか?

今書いてもらったその全てが「ウソ」な可能性があることを少し、想像してみてください。

私たちは、自分たちが今まで体験してきたこと、見聞きしてきたことの中からしか、判断することができません。

少し話はズレますが、この間、私より少し若い方の相談に乗る機会がありました。
「将来役に立つ資格を取りたいと思ってるけど、どんな資格がいいか分からないんです。どうやって決めるのがいいんでしょうか。」と聞かれました。

自慢ではありませんが、私は資格らしい資格は何も持っていません。
日英同時通訳者でありながら、最後にTOEICを取ったのは10年前(時効。笑)
それ以外は公的な資格はなく、車の免許すら持っていません。笑

つまり私は、相談してきた相手の、想像できる範疇を超えたところにいるんです。

言い換えれば、相手のエゴが想像もできない、より広い世界がそこにはあることになるのですが、それでも「資格をとる」という選択肢しか持っていなければ、その中から最善の解を求めようとします。

この相談を受けた時に、「ああ、私も自分の経験の中から、これが1番いいだろうと思う答えに、しがみつこうとしていた」と気がつきました。

つまり、自分が無意識に持っている、「自分とはこういう人間だ」というイメージの枠組みから出なければ、せっかく意識の世界から発せられた衝動を、エゴが止めてしまうことになるのです。


そして、さらに言えば、「私はこういう時に幸せなの!」というのが、「幸せっぽい刺激」である可能性も考えなければなりません。

割といいお値段のオーディオインターフェイスとマイクを手に入れた私ですが、1番嬉しかったのは、手に入れた瞬間でした。
ワクワクしたのは確かです。でも、こうした「使うのが楽しみ!「わぁ、こんな感じなんだ!」という、「新鮮さに惹かれる感覚」が、そんなに長く続くでしょうか?
新鮮さに惹かれるという大きな刺激に、依存しているだけなのかもしれない可能性はないでしょうか。
そもそも「欲しい!欲しい!」と求め続けていたあの感覚がそもそもの依存だったと、気づいているはずでは…と思いました。

私のエゴは、物欲や食欲を満たすことで得られる「快楽」=幸せ、だと認識しているようなのです。

でも、こんな体験もありました。

週末で、フードコートがいっぱい。
そんな中、私と彼は、四人テーブルを確保することができました。
しばらくすると、ちょうど私の目の前に、小さなこどもを連れた三人家族が、二人テーブルを取り、なんとか椅子を確保して子供と座ろうとしているのが目に入りました。
その時、気がつくと私は「よかったら場所変わります!」と声をかけていました。
「すみません、ありがとうございます」と、挨拶されて、気持ちよく場所を交代しました。

その時、すごく胸が温かくなって、「ああ、行動してよかった」「ああ、こういうあたたかい交流がしたかった」と、優しい世界を体験したことに、うるっときた、そんな体験でした。

オーディオインターフェイスを買った時の喜びとは、全く出所の違う喜びでした。
でも、行動してみるまで、私が「温かい交流」を求めていたと実感することはありませんでした。行動する前は、席を譲ることに意識が向いていたんです。

つまり、

① 家族が目に入る(意識がその家族に向く(衝動が上がる)
② エゴの声(ほんとに声かけるの?とか)が働く前に動く
③ 行動してみて本当のニーズ(温かい交流)があったことに気づく

という順番を辿っていたんです。

オーディオインターフェイスは逆を行っていますよね。

① 幸せや喜びっぽい刺激を外の世界に求める
② 標的を確認
③ 内側の衝動とは関係なくエゴが先行してGET

うん。バグってる。笑

それともう一つ。
やりたいはずなのに、全然行動してない。というアレ。
エゴは、どちらに進んだ方が楽なのか、どちらを選択した方が安全そうなのか、(エゴの知っている領域範疇に限られるとはいえ)知っています。
だから、容易にSTOPをかけるのです。

私に起きていた、強い執着・欲求と、やりたいはずなのに動けないという、一見対極にあったはずの2つの出来事も、こうしてみると、「自然な動きをエゴが止める・自然な動きを無視してエゴが暴走する」というエゴと意識の歪んだ連携が、同じ仕組みの中で動いていたことがよくわかります。

霊的な成長、心の成熟というのは、いつも逆説的だなと思うことがあります。
今回の「色欲」もそうでした。

本当のニーズを知りたいと思えば思うほど、そのことが執着となり、外側に求めるようになる。
抗うエゴをサレンダーし、何か分からない衝動に従い行動することで、新たな体験に開いた先で、自分が本当に望んでいたこと(真のニーズ)を知る。

本当のニーズを先に知ってから動きたいという欲求さえ手放し、サレンダーする必要があるのだと思いました。それは、内なる衝動に従って行動した先にしかない答えだからです。

だから、色欲というのは、
幸せや喜びを知りたいという、人間の本能的なニーズから来る歪みであって、子どもじみたエゴを認識し、手放した先にある真のニーズに再び出会うための道標である。と結論づけたいと思います。

最後に、色欲と向き合う際に私が辿ったプロセス(やり方)を記しておきたいと思います。ぜひ皆さんもご一緒ください。

「色欲」の超え方

プロセスを紹介する前に、私がつまづいたポイントを。
執着がある時というのは、必ず体感覚があります。その体感覚さえそのままにしておくことが出来れば、色欲を攻略できると思っていましたが、違いました。そもそも、この執着の体感覚がエゴにしがみついている感覚なので、それを感じていたところで何も起きなかったんです。笑

「色欲」の超え方
① 自分の持っている執着や抵抗に気が付く
② 執着や抵抗がある=エゴなので、自然の動き(意識という広く摩擦のない世界)と整合していないエゴを、意識世界の領域で特定する
③ エゴの存在を認識する
④ それと同時に、意識世界が宇宙レベルで広いことに気が付く
⑤ 意識世界=宇宙に意識を向け、サレンダーする
⑥ しがみつく執着や抵抗が自分の体から離れ、十分に意識世界と整合してきたら、その視点から見た「自分の持つ可能性の広さ」に気が付く

Nao

少しだけ補足すると、
エゴを認識できるということは、摩擦が起きている(自然の流れから乖離している)場所を特定できることと同義です。
なので、エゴを認識することができれば、その周りを取り巻く自然なエネルギーのパルスにも同時に気がつくことができる、という原理です。

私はこのエクササイズをするようになってから、ネガティブプレジャーにしがみ付きたくなる衝動が減り、思考ではなく、自分の直感に従って選択をしたり、または自分がやりたいと思っていたことを少しずつ行動に起こせるようになりました。
ついつい、肉体が疲れていても、意志の力で立ち上がって、無理をしてしまう傾向も、この体の声を聞くプロセスをより深く理解したことで、自分の体の声に耳を傾けることもできるようになりました。

後書き

またまた今回も、1万字近いレポートとなりました。笑
もともと、「なおちゃん、あんなに急いでテーマ選んでたけど、色欲は人気なかったで」と言われていたにも関わらず、どうしてもやりたいと思った「色欲」というテーマ。笑
このテーマが、私の内側に蔓延る、たくさんの執着の手放し方を教えてくれるのではないかと思っていたことがきっかけでした。
また、実際にこうして「色欲」というテーマを探求していくうちに、自分がうまくエネルギーを扱えていた関連する場所も発見することができました。
そもそも、「色欲とは?どうやって超えるの?」という疑問は、ずっと自分のエネルギーフィールドでホールドしていて、それが紐解かれる瞬間と立ち会った、時が満ちた、というような感覚を得ました。

物欲のような欲求ではなく、「なんでかよく分からなくても、なんだか知りたい」というものには、今まで必ず答えがやってきました。
これを引き寄せというのなら、同じように、内側からやってきている衝動なのか、外側に向けて放たれる執着なのかを感じ分け、内側からやってくる自然な衝動に、意味や理由を求めず、ただエネルギーとして放っていることで、今よりたくさんのものを引き寄せることも出来るようになることでしょう。(もちろん、エゴに働いてもらっていてはダメだけど。笑)

また、世の中で言われている、お金や権力に対する欲求というのは、まさに「色欲」で言うところの、外側に向けて放つネガティブな欲求であって、「これさえあれば自分は満たされるだろう」と誤解している、本来の自分とは完全に切り離された欲求なのだと言語化することも出来るようになりました。
性的な欲求も、それそのものが悪いと言うより、性的な衝動が沸くのは自然なことだけれど、そこに承認欲求や権力、コントロールしたい欲など、さまざまな歪みが一緒になって現れやすいのが問題であって、だからこそ性的な欲求はデリケートなテーマなのだと思いました。

今回も、こんなに長いレポートを最後まで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。

Instagram

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?