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里親家庭で学んだ 子どもとの関わり方

ひょんなきっかけがあって、NPOの活動の一環として、里親家庭で子どもたちと関わる機会をいただいている。子どもたちからしたら、週に1回、たったの1時間。
でもその時間を楽しみにしてくれているのがすごく伝わって、嬉しい。
支援活動のトップをやっている人は、私がしている子どもとの関わり方について、いつも関心しているようで、私自身、特段何かしているわけではないと思っていたけれど、「もしかして、これ?」と思う心当たりもあるので、私がどういうことを考えながら子どもと接しているのか、言語化してみることにする。

出来るだけ素の自分で在ること

私は、心の中で、接する子どもたちのことを「小さなお友達」と呼んでいる。笑
実際に子どもたちに会うと、最近の学校教育は厳しいのか、小学生が敬語で挨拶してきてすごく驚くんだけど、こっちが「こんにちは〜!元気?」とか、「やっほ〜!」と声をかけると、そのうち慣れてきて、お友達になれる。

子どもたちと関わっていると、自分の中でも居心地がいい時と、悪い時が出てくる。
私は虫がめちゃくちゃ嫌いなので、公園に行った時にセミが止まっていて、怖すぎてセミから10メートル以上距離を取ったこともあった。先生をやっているから無理でもやらないと!と言う気持ちには到底なれず、「本当にムリ!」って子どもたちに言って、遊びも中断した。だけど、「この人虫無理なんだ…?」ってわかった子どもたちは、なんとかセミを飛ばして、もっと私を怖がらせようとして遊んでいた。非常に迷惑な話だ。笑
だけどそこから、お家で支援していても、虫が出ると、あえて私にお知らせせずにポイしてくれて、「先生、虫嫌いだから見なくて良かったよ」と男前なこと言ってくれちゃったりして、ちょっと可愛い。

結構、本当に思ったことは口に出して言うようになったと思う。
本当に思ったこと、というのがポイントで、人間って案外、思ってないことを言う方がカンタンだったりするものだと思う。
「あ、いいよいいよ〜」と流されてしまったり、「こっちの方がいいと思うよ〜」と自分の思う方へ誘導するために上部の理由を並べたり。
こういう関わりは、しないようにしてる。というか、そんなことする意味はなくて、嫌なら「これは嫌だ」、やりたいことがあるなら「これがやりたい」って、はっきり言うことで、じゃあこうしようああしようって、ジャッジのない中で、お互いの心地良い空間を見つけていくことができる。
本音だからこそ、お互い安心して思ったことを言えるし、やりたいことをやれるんじゃないかなって思う。

とにかく可愛い

自分がキュンっとしたり、ふわっとしたり、ほわっと落ち着けるような感覚を、なるべく探すようにしている。
「小さなお友達」とはいえ、私は大人だし、やっぱり相手を子どもとして見ている部分もあって、だけどそれは「子どもだから」という子ども扱いとしてではなくて、自分より柔らかさを持った存在として、「子ども」と見ている。
一緒にいると、いろんな柔らかさを感じる。
お母さんに「ダメ」と言われたら、たとえ男の子であってもシュンとする姿を見ると、いろんな葛藤が心の中にある思春期な感じを感じたりとか、膝に乗ってくる女の子の、てろーんっと甘えてくる繊細な柔らかさとか。
エネルギッシュな時もあって、冬で寒いのにかけっこを一緒にして、上着も脱いで暑くなっちゃったり、自分の時間が終わった瞬間にゲームしに走って行ったり。

自分が一緒にいて、一緒にいる時にどう感じるのか?を、いつも意識していて、可愛いとか、こういうところがいいところだな、とか、自分にはない一面だな、とか、色々なことを関わりの中で感じる。
それを愛しいと思える自分でいることが私にとって幸せで、とても平和な部分だと思ってる。

問題があるときは自分の内なる声を聞く

それでも、最初の頃は戸惑うこともあった。
私が最初に子どもたちと関わる大きな機会となったのは、託児所で働いていた頃で、その頃から考えると、もう5年くらい子どもと接することを何かしらしている。
家庭で子どもの面倒を見る経験がしたくて、ついでに海外にも行きたくて、イタリアへ3ヶ月住み込みのベビーシッターをしに行ったくらい、子どもは私にとって原動力でもある。

私が子どもと接する中でよく困っていたのが、「どう関わったらいいかわからない」という悩みだった。
子ども同士が喧嘩しているときに、介入すべきなのか分からなかったり、思春期の反抗期男子たちに反抗された時に、いい顔しい感じで「なんともありませんが何か?ニコニコ」みたいな対応しか出来なかった体験もある。全然素じゃない。w

こういう、どう接したらいいか分からない時は、自分の本音が分からないことの裏返しでもあると思っている。
だからこそ、自分の内なる声を聞く。

相手の主張はともかく、自分はどう思うのか?どう感じているのか?
それをただ、ノージャッジで言語化する。

ノージャッジで、というのもポイント。
「あんたがこういう態度だからいけないんでしょ!」なんて、ご法度。それは、自分の思っていることや感情を相手に押し付けているだけにすぎない。
そうではなくて、「私はこう思う」「あなたの考えとは、どうやら違うんだね」と言うのを、フラットに、対等だと感じながら言えるか。
ここは本当に、自分の傲慢さやエゴが試される瞬間だと思う。対等だ、と思えないなら、何も言わない方がまだマシなくらい。
子どもをなんとかしようとするんじゃなくて、同じ人として関われない自分をまず変えていく方が安全だもの。というか、大人がこういうことに気がつかないで子どものせいにしてしまっていることが多いと感じているから、大人が自分の立場を利用してしまっていることに対して、とても素直になって、お互い同じ人間なんだという土俵で話ができるようになったら、それはそれはとても平和になるんじゃないかなと思う。

大人同士の人間関係であっても問題は起きるし、子どもとの関係でも同様に、人間関係である以上、何かしらの問題は起きる。
どちらにしても、その時に自分が「本当に思っている気持ち」をまず自分で理解し、傲慢(劣等も同じ。裏返しなだけ。)になっているエゴを手放し、より素の自分に返っていくことが必要なんじゃないかなって思う。

たとえ傷ついたとしても、その瞬間傷ついたことを素直に感じられる。
何かホッコリするようなことがあったときは、素直に素朴な幸せを噛み締められる。
そんなピュアな心を取り戻していくことが、子どもとの関わりで大切なんじゃないかなと思いながら、いつも関わっています。

心が平和な大人が増えたら…

こうやって、自分の心と向き合いながら、これでもだいぶ私自身平和な心を保てるようになってきた気がしています。
そして、それに伴って、私が本音で関われなかったところが、本音で関われるようになった時に、子どもの反応が今までとガラっと変わることが増えて、大人の在り方が子どもの心に影響するんだと、とても感じるようになりました。

自分の子どもだと、どうしても感情的になってしまったり。
先生をしていると、他の先生との兼ね合いや、園の方針があったりして、なかなか思うような関わりができなかったり、と、大人だからこその葛藤はもちろんあると思います。
だけど、そういう葛藤はありながらも、自分の本当の気持ちを見つけていくこともまた本当だと思います。

それがやりにくい社会になってしまっている事実も、核家族社会で、他の家族との交流が絶たれてしまっていて、お互いに支え合うことに抵抗が生まれていることも、せめて自分の周りだけでも変えていきたいです。

大人の心の平和が、子どもの心を救えるんだとしたら、何かしたいなって思ってしまうのです。
子どもと関わる大人に、自分の内なる声を聞く方法も伝えていきたい。そのためにヒーリングをしていたりもします。
そして、やっぱり自分自身が子どもともっと関わりたい。そんな気持ちで、里親家庭の支援をしています。

そしてやっぱり、子どもオーケストラは実現させたい。
そんな気持ちで活動しています。

クラウドファンディング、まだまだ継続中ですので
もし共感、応援していただけましたら、ご支援よろしくお願いします!


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