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襲い掛かる普通

休日のリラックスタイム。もう、ずっとリラックスしていたい…。そんな大好きなリラックスタイムを、否応なしに不幸の時間へと変える、恐ろしい思考が時々襲ってきます。それは、「世の普通」という考え。

よく、「人と比べてはいけない」といいますが、その意識はなく、無意識にそうしてしまっていることって、私以外の人にも多いと思います。なぜそうしてしまうのか、なぜそれに気づかないのか。たぶん、「よし、人と比べよう!」と言って、すぐさま他人と自分を比べているわけではないからだと思います。

私がよくあるのは、じわりじわりとそうしてしまうということ。

例えば会社に、自身の趣味をとっても楽しそうに話す同僚がいたとします。彼女は絵画を見るのが好きで、休日は美術館巡りをよくするそう。彼女は絵画にとても詳しく、週末に行った美術館のこと、感動した絵画のことをとても楽しそうに話します。彼女は絵画だけではなく、モンブランケーキも大好き。だから、美術館に行くときは、その近くにおいしいモンブランケーキを食べられるカフェがないかリサーチして出かけるそう。

その話を聞いた私は、「絵画に詳しくて、すごいな!」「なんでモンブランケーキにこだわるんだろう。でも、そのこだわりが彼女らしくて、いいな♪」「なにより、彼女は好きなことを話してるとき、本当にキラキラしててる☆」と、話を聞いているこっちも、なんだか楽しくなってきます。そして、こうなります。「私も、好きなことに夢中になって、プライベートを充実させて、キラキラしたいな♪」

ここまでだと、「人と比べてる」なんて、自分では思わないんです。むしろ、素敵な情報を得た、自分の人生に生かそう! そのくらいにしか思っていません。そして、ここで、順調に彼女と同じように好きなことに夢中になれて、キラキラできたら、問題ないのです。

順調にいかないときとは。上記の例でいうと、「彼女のような、心から好きだと思えるものがない」。そして、「さほど好きではないけど、好きなふりをしてみた。だけど、やっぱりさほど好きでもないから、詳しくなれない」。。。そうなると、「私は何が好きなんだろう」からの、「なんで私、彼女のようにできないんだろう」となります。

そういっている間に時間はどんどん過ぎ去ります。そんな中、キラキラしていた同僚とは部署が離れ疎遠になりますが、新たに出会う人たちの中にも、同僚のようにキラキラしている人がいます。気づいたら、ほとんどがそんな人たちでした。そして、無意識に、ふとしたタイミングで襲ってくるんです。「なんで私は普通どおりにいかなかったんかな…」

これ、同僚じゃなくても、例えば友達がいないけど、テレビが好きでよく見る人がいたら、それはテレビの中の世界の人と自分を、時間をかけて比べることになり、テレビの中のことが普通になっていき、それが自分にとっても普通にできれいれば悩むこともないのですが、できなかった人は最終的に毎日それと比べることをし続けることになって、「なんで私は普通どおりにいかなかったんかな…」となる…。

これが「普通」による怖さだなと思います。だって、幸せなリラックスタイムすら簡単に不幸に変える力を持っているから。うまくいかなかったジャンルにいる私は、「普通」は凶器に近いです。

でも、その普通を生み出したのは、世が提示してくる普通に同意した自分自身なんですけどね。

#2021 #202104 #エッセイ #おしゃべり #個人的な意見


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