制度化された虐待ー映画『海辺の彼女たち』とベトナム人技能実習生

 ベトナム人技能実習生を題材とする映画『海辺の彼女たち』(監督・藤元明緒)を見たのは、以前から、ベトナム人技能実習生の問題に関心を抱いていたからだ。貧困状態にあるベトナムの若者たちに紹介料として借金をさせて、逃げられない状態にして、怒鳴られながら低賃金で長時間の過酷な肉体労働を強いるために、受け入れ先から逃げ出し、苦境に陥っていく技能実習生たちをめぐる状況は痛ましく、日本でこのようなことが行なわれていることは最初は信じられず、しかし、落ち着いて考えてみれば、腑に落ちるものでもあった。格差社会化した日本社会において、このようなことが行なわれるのは、技能実習生に限った話ではない。日本という国を信頼して、良いイメージを持って日本にやって来たにもかかわらず、信頼を裏切っていることが恥ずかしい、という想いを持つ人は多いはずだ。この映画に関心を持つ人は多いと思うが、ミニシアター系の映画であり、見に行くことができない人のために、詳しくこの映画の概要を書いておきたいと思う。

 映画は、3人のベトナム人技能実習生の女性たちが、受け入れ先の会社から逃げ出し、ベトナム人の紹介者を通じて、別の会社で働き始める。前の会社では、残業に継ぐ残業で、一日15時間労働を強いられ、にもかかわらず残業代は出ず、仕事もできないのに要求するなと怒鳴られる、給料から何かと差し引かれ、思うように貯金が貯まらない。このような状況に耐えられずに逃げ出してきた女性たちに、ブローカーの男性は、雪国の地方の漁港での魚の仕分けの仕事を紹介する。ブローカーの男性は親切な様子を装っているが、「一度始めたら逃げられないよ」と冗談めかしつつ脅したり、紹介料を取ったりする。善意の支援者ではなく、彼もまた搾取する側にいる人間であり、不法滞在者となった彼女たちにとって共犯者でもあるのだ。この映画において彼女たちを取り巻く人々はみな、このように、「支援者/搾取者/共犯者」といった複合的な顔を持つ。

 映画は、雪国の漁港で魚の仕分けの仕事をする女性たちの姿を映し出すが、観客が感じるのは、人気のない雪国の田舎町で、不法滞在者として過酷な労働を強いられる女性たちの逃げ場のなさの絶望感の感覚だ。このような辺境の土地で、異国から来た不法滞在者が相談に乗ってくれる支援者など、到底見つけられそうにない。ブローカーの男性は、「田舎だから不法滞在者でも捕まらない」と言っていたが、それは保護されることもないということだ。彼女たちは国/支援者の目の行き届かない、地方の町に隔離/監禁されるのだ。

 映画はここからさらに過酷な展開をたどっていく。ベトナム人女性の一人フォンが体調を崩し、友人のアンとニューは彼女を病院に連れていくが、不法滞在者である彼女たちは病院に行っても在留許可証も保険証もないために、受付の段階で追い払われてしまう。フォンは自分が妊娠しているかもしれないことを打ち明ける。相手は日本に来る前に関係を持った男性で、連絡が取れないという。妊娠検査薬で妊娠していることを確認したフォンは、自分たちの存在が発覚し、ベトナムに強制送還されることを恐れるアンやニューの反対を押し切って、ブローカーの仲介で、偽造の在留許可証と保険証を手に入れ、改めて一人で病院に診察を受けに行く。日本で働き続けて金を稼がなければならないが、子どもを産むためには、それを諦めなければならない。追い詰められた状況の中で、フォンはどのような選択をするのか。産みたいと思ったとしてそれは可能なのか。観客の脳裏に様々な考えが思い浮かぶ中、フォンの選択が示されていく。

この映画で描かれるのは、異国の地で、不安定な立場で、言葉も通じず、過酷な労働を強いられて彷徨うベトナム人女性の所在なさだ。ロケ地は青森県外ヶ浜町で、東北地方の北にある小さな町だ。3人が海辺の宿泊所から徒歩から、電車、バスを乗り継いで病院まで向かうシーン、フォンが改めて一人で病院まで行き、また帰っていくシーンが長い尺が取られ、人の気配のない異国の地を、雪と寒さに晒されながら、病気/妊娠の不安や、診察を受けられるのかどうかという不安を抱えて、病院に向かう彼女たちの姿は、彼女たちが置かれた状況の心細さや不安を、視覚的に表すものだ。

 移動のシーンとともに強く印象付けられるのは、ベトナム人女性たちの言葉の少なさだ。過酷な状況に対して彼女たちが何を考え、どのように感じているのか、彼女たちの口から語られる言葉は少ない。それも状況が悪化し、追い詰められるほどに、それを口にし、友人たちと共有することもなくなっていく。フォンが子どもを産みたいと思ったとして、フォンが保護されれば、アンとニューの存在も発覚し、ベトナムに強制送還される可能性が出てくる。フォンとアン、ニューの間で利害が対立し、彼女たちの間でも分断されるのだ。したがって、観客は子どもを産むのかどうかという重い選択について、フォンの胸にどのような思いが去来し、どのように考えているのか、フォンが漏らすわずかな言葉や、フォンの表情から想像するしかない。

 しかし、観客にはフォンの表情を読むことはできない。観客はフォンに産む選択を期待する。状況は過酷だが、フォンが決意を固めさえすれば、後は友人たちもやがて協力し支援者を得て、どうにか状況を打開していけるのではないか。映画に物語的なカタルシスを求める観客のそのような期待は、しかしこの映画にとってふさわしいものなのだろうか。映画の結末におけるフォンの選択は、観客にベトナム人技能実習生が置かれた、過酷な現実の重さを突きつける。

 この映画は、観客に「考えさせる結末」になっているが、考える材料は、例えば映画のパンフレットにもある。映画のロケ地となった青森県外ヶ浜町の町長は、監督に映画のロケ地として協力を求められたとき、最初は技能実習生についてネガティブに描く映画なら、協力を断るつもりだったという。この町もまた人工減少の中で、技能実習生がいなければ、立ち行かなくなっている自治体だからだ。技能実習生の受け入れ先の全てが、実習生を搾取/虐待しているブラック企業なわけではないし、日本に良いイメージを持ってベトナムに帰国する実習生もいるだろう。また、地方都市は技能実習生がいなければ立ち行かなくなってしまうという状況において、技能実習生という制度は完全に悪とは言えなくなる。

 この映画に登場して技能実習生と関わる人々は、みな明確な悪とは言えない人々だ。ブローカー、偽造証明書の製造人、漁港の人々、病院の受付。みな彼女たちに冷たく接するが、しかしそれは自分の生活がかかっているから、仕事だから、規則だから、仕方ないことなのだ。しかし、一方ではこのようにも思う。そうした「仕方ない」の積み重ねが、弱い立場の者から順番に足元に迫っていき、人々を追い詰めていくのではないか、と。被害と加害が循環する構造の中で、しかし、「仕方ない」ではなくて、人権の感覚に立ち返って、制度について根本から考えることが求められている。

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