デザインに対する覚書。

何かを習得するというのは、等しく「身体を思考によって制御する」側面を持つと思います。何も考えずに出来たことも、なぜそれが出来たのかを考える。無意識の領域を発見し、意識によって定着させ、反復することで無意識に戻す。また、出来ないことも同様に、意識することで何を考え、どう動けば出来るのかを導き、反復によって達成する。デザインは、一見するとただの見た目ですが、アートディレクション(全体の指針)とは別のところにも、そこには思考が隅々まで存在しています。

デザインを分解すると、意味、造形になります。その二つを結ぶものが思考であり、まとめて表現に昇華されます。よく「強い表現」という言い方をしますが、それは一体どういう意味なのか、以前よく考えていました(その当時僕は、アートディレクションというものについて考えたり、造形言語というものについて考えたり、根本的な「自分が思う美しいもの」について考えたり、手元ばかり見ていたところから、少し引いた目線で物事を捉えたい気持ちが芽生えていました)。

自分の理解の上で、現状、以下のように考えています。

どうやら「強い」は「太い」に言い換えることができ、その「太さ」はマジョリティ(多数派とか大衆とか)に繋がっています。マジョリティを向けば向くほど難解さは消す必要があり、最終的には意味だけがあり、造形にいたっては何もない状態にまで行き着きます。わかりやすいところで、寄藤文平さんや水戸部功さんが発明した手法は、この「意味」だけをひたすら高い強度まで磨いていくようなことだと思っています。その結果、そこに「造形」が発生していく。見た目では簡単にできそうに感じますが(この「簡単にできそう」てところが、また強度を持っている所以でもあると思います)、試しに文字を大きく組んでみるとすぐに気がつきます。全然ダサい画面が出来上がるから。至極当たり前なことですが、細部のバランスを突き詰めていった結果、デザインとして成立しているのです。

そして「造形」による「表現」。これは「何もない」で済まされない(「何もない」を表現するにしても)ので、どうしたらいいものか。考えていった結果、何もない=ブランクでも、造形としては強くしていくことが可能なのでは?と思い至ったのです。
ブランクだけど強い造形、というのは、シンボリックな表現に繋がっています。シンボルはみんなが知っているものだったり、単純な形であったり、承認しやすいものであればあるほどいいです。瞬間的に観る人の中にイメージが発生するため、コミュニケーションの入り口が広い。そしてそのシンボルに、表現の軸を与えていくのです。その成果物を見たことがない人に説明すると一言で言えてしまえるのに、実物を見ると言葉で説明することができない(その制作物の役割には直接関連がない)要素・情報量がある状態。それが「強い造形」であり、「強い表現」に繋がっていきます。

蛇足ですが、面白いことに、デザインのコンペではこの流れで生まれる「強い造形」では勝てないことが多いように感じています(自分の経験だけの話です、そしてコンペに落ちるのは全然面白くない)。造形自体に特異性が必要で、さらにそれを強くしていったものが選ばれているように思います。意味から発生して一続きになっていてはダメなんです。コンペはおそらく、仕事を評価しつつも、個性の発見に重きを置いているのではないでしょうか。だから、「これで仕事はできないでしょ」という、一見すると何なのかわからないものが並ぶこともあり得るのではないでしょうか。

一方で、この考え方を基準とするならば、その逆を辿ってもまた、「強い表現」が成立するとも言えます。観る人の中にあるイメージの逆を張っていくのです。2012年に三菱一号館美術館で開催された「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」展で、北川一成さんがデザインしたものはその最たるものでした。当時から「美しい造形」とされるものへのカウンターとして、ナンセンスだったり不条理なレイアウトだったりは手法としてありましたが、あそこまでの鮮やかさは、初めて体験しました。予想通りというかなんというか、賛否が湧き起こりましたが、当時あのデザインの凄さを頭で理解する道筋が自分にはまだなく、ただただ「すっげえな!」と興奮していました。今でも、こういう理解を超えてくるやり方で、「強い」=「マジョリティ」に向けることもできるのか、という驚きがあります。自分は体感的には知りませんが、「ヘタウマ」のイラストレーションが発生したときも、みんなこんな感じに驚いたのかな、と想像します。よく知らないで書いてしまうけれど、リアルイラストレーションに対するカウンターでもあったのかな。ちょっと今度、調べてみよう。

逆張りの発想は、瞬間的なコミュニケーションに重きを置く、広告やデザインならではなのかもしれませんが、この手の考え方は広く普遍的なものだと思っています。僕はデザインでしか経験をしていませんが、ある期間に集中的に何かに取り組んだことがある方なら、同じようなことを考えているのではないか、と。
細やかな造形への目配せは技術なので、それは高めるだけ高められたらいいと思っています。でも、その技術をどう用いていくかには、選択の思考を積み重ねる必要があります。自分にとっての絶対的な美意識のようなものでは立ち行かなくなり、デザインに思考がめぐっていって、初めて自分は、アートディレクションの入り口が見えた思いでした。技術も視野も、まだまだ発展途上なので、今後違うこと言い出しそうだけど、ここ数年は、こんな感じが自分の基準になっています。(松田でした)

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