田渕正敏との出会い(前編)

改めましてこんにちは。へきちのデザインしている方、松田です。いつも通り思いつきと瞬発力で始めたnoteですが、ちょっと、こういう場所なので残しておきたいことを書こうと思います。

へきちはイラストレーターの田渕正敏とデザイナーの松田洋和の二人組なのですが、最初からそういう関係性だったわけではなく、出会ってから少しずつ今のかたちになっていったように思います。バンドメンバー募集で知り合った、というよりは、仲良い人とバンド始めた、みたいなのがへきちです。

いろいろな節目があると思うけれど、ちょっと、今日は田渕正敏という人間について、僕の目線でちゃんと書いておこうと思います。

2010年5月、中途入社で入った会社に、数年先輩として田渕正敏がいました。その会社では朝の掃除やゴミ出し、備品整理なんかの雑務から、大判出力や郵便手配、果ては昼ごはんの買い出しまで、下っ端が一手に引き受ける環境でした。そういうのをやりながら、もちろんデザイン業務をやる。そういう仕事内容以外にもいろいろ気が滅入ることばっかりの場所だったのですが、まぁあんまり具体的にそのあたり書いても怒りの蒸し返しになるので、割愛します。
そんな中、タブさんと、当時30過ぎくらい?の上野隆文さんだけが、愚痴を聞いてくれたり、優しく接してくれたのでした。
そしてまた、その2人だけが、制作に対して真っ直ぐな気持ちを持っていたように感じていました。タブさんは雑務のいろいろを教えてくれる中で「自分は少し先に入社したけど、まっつんのことは同期だと思っている」「だから一緒にがんばっていこう」と話していました。なんかすげえいい人だな、と思いました。

入社して間もない頃に、タブさんは過去に関わった案件のポスター類をマップケースから一枚一枚出しながら、そのポスターのどこがいいのかを嬉しそうに話してくれたことがありました。そして「こんなにいろいろなポスターを作れる環境はなかなかないよ」と。おおよそ美術的な評価の対象外であるテレビドラマのポスターに、そういう思いで携わっていることに驚くと同時に、自分の偏見が露わになってすごく恥ずかしい気持ちになりました。

また、タブさんは1_WALLに応募する写真を見せてくれたりもしました(出会った当時は、タブさんはイラストよりも写真を撮っている印象が強かった)。コンペに挑む意義がわからない僕に「自分が尊敬している人が、自分が作っているものをどう思うのか知りたいからやっている」と話してくれました。褒められるのは嬉しいが否定されるのは恐ろしい……と、誰かに評価されることにビビっていた僕は、この人すげえな、と尊敬の念を抱きました。

隣の席で毎日を過ごす中で、お互いが愛している文化や作家についてポツリポツリと話す機会もあり、タブさんへの信頼は増すばかりでした。会社は渋谷まで歩いて20分くらいの場所だったのですが、自転車通勤のタブさんは僕に合わせて毎日渋谷まで歩き、愚痴や理想や最近見たすごい良かったものについて、お互いに話しながら帰っていました。ちなみに上野さんは、僕たちのお兄さんのように、ニヤニヤしながら「いいねぇ」とか言ってる感じでした。

盛り上がるタブさんと僕が、一緒になんかやりたいね、となるのに、そんなに時間はかかりませんでした。夏頃には一緒にカレンダーを作る企画を考えて早速始めました(これは結構面白い企画だったのだけれど、毎日休まず必ずやらなきゃいけない感じで、半年くらいはやったけれど引越ししたりとかもあって頓挫してしまった)。その過程でうちに遊びに来たタブさんに、大学時代に作った、図書館で借りたArmin Hofmannの“GRAPHIC DESIGN MANUAL”を一冊まるまるスキャンして製本しなおしたものを見せたりしました。そんなものを面白がってくれる人に出会ったのは初めてでした。

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少し話は戻りますが、タブさんは会社の中で不思議な立ち位置で、社内発注のようなかたちでイラストを描いたりもしていました。そのとき描いていたのはハワイの島々のマップ絵?のようなもので、確かポスターカラーか何かで描いていたものでした。
タブさんは一時期フリーでイラストレーターをやっていた(本人が言うには「やろうとしたけどできなかった」)という話も、確かこのときに聞いたのでした。

2010年の秋口くらいだったか、タブさんが今夢中になって描いているシリーズを見せてもらいました。それはネジやワッシャーや見たことのないパーツ類を、鮮やかな水色で緻密に描いた絵でした。夜中の会議室でバーっと並べて見せてもらった絵は、よくわからない熱を発していて、興奮しながらクラクラしたのでした。学生時代にやりたかったこと・やっていて楽しかったことを変わらず続けていることに、胸を撃ち抜かれました。(タブさんはその後もこのシリーズを描き続け、このときに見せてもらった絵を含め、後々まとめたものが、“Buhin”です)

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しかし毎日会社で起きていることは自分の理想とはかけ離れていて、日に日に耐えられなくなっていきました。年明け頃だったか、スタッフの誕生日祝いのケーキの買い出しで渋谷近辺を走りまわっていたときに、フッと「あ、もうダメだ」と思いました。なんかいろいろと馬鹿らしくなってしまいました。ケーキの買い出しとか、デザイン全然関係ないし。
そしてその日の夜(だったと思う)、タブさんに、会社を辞めるつもりであることを話しました。そのときタブさんは「すごく寂しいけれど、俺がまっつんでもそうするから、何も言えないし止められない」と言いました。渋谷のデニーズでした。なんでそのとき辞めるのをやめたのかは忘れたけれど、タブさんが言ってくれたこととそのときの雰囲気は、なぜか鮮明に憶えています。


タブさんは結構、思いついたことを片っ端から言っていくところがあって、あるとき一軒家の1階の駐車場スペース(て言って伝わりますかね)を借りて、そこをアトリエにする計画を話してくれました。「まっつんもそこで一緒になんかやろうよ!フリーペーパーとか作ろうよ!」てな具合で、とりあえずそのスペースの名前を考えよう、ということになりました。

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“ウツー”とか“ヌーヌー”とか“付セソ”とか“ドボン”とか、わけがわからないネーミングの中に“へきち”もあったのでした。
だから、最初は場所の名前のイメージだったのです。あの頃は「ここには居たくない」だとか「自分が信じている世界はどこかにあるはずだ」みたいな気持ちが強かったので、そういう思いがそのまま名前に託されていたのかな、と、今になって思ったりもします。
なんでアトリエ計画がなくなってしまったのか忘れたけれど、まぁ毎日そんなふうに思いつきを話すことで現実逃避をしている感じでした。


3月には、東日本大震災がありました。会社の中でもこれからについて考えていることを話す場があったのですが、そこで決定的に、上野さん・タブさん・僕と、その他のスタッフの考えが噛み合わないことがはっきりしました。タブさんは「上野さんがいるうちは付いていこうと思っている」と話していたのですが、上野さんもやはり環境に不満を持っている人だったので、そのタイミングで辞める意思を固めたようでした。
ほどなくして、部署のリーダーから、上野さん・タブさんから辞める意思を表明されたことを聞きつつ「お前も辞めたいんだろ」と言われました。自分から言い出さなくて情けない話なのですが、同意し、僕も時期を見て辞めることになりました。

その頃には、毎日の渋谷までの帰り道では時間が全然足らず、終電がなくなっても渋谷駅で話し込み、僕が住んでいた中野坂上まで歩きながら話を続行させ、遂には中野坂上のデニーズに入ってまだ話すという日々になっていました。家に帰るのは朝5時とかで、その後9時には会社にいたんだから、若かったんだなぁと思います。


ちょっと長くなってきたので、一旦区切ります。気が向いたら続きを。(松田でした)

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