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「また次の扉を開けよう」

早いもので、右胸の全摘手術からもう1年が経った。
去年の今頃は右胸の全摘手術を受けている頃だ。
一つの治療が終わると休む暇もなくまた次の未知の治療が待っていた。
終わっても終わっても次の治療が待っていて、胸が押しつぶされそうな思いだった。
今度はどんな副反応が出るんだろう、私の体はどうなってしまうんだろうと、不安でいっぱいだった。
手術もしたくなかった。
もう嫌で嫌で、数日前からどんより落ち込んでいた。
そんな去年の夏だった。

先日、尊敬する元上司が暑中見舞いで、「去年の辛い夏は思い出となりました。」という言葉をくれた。
この言葉で、治療や手術の辛さやしんどさから解き放たれたような気がした。
辛いことも悲しいことも受け入れて思い出にしてしまえば、楽に生きられる。
もう過去の出来事だ。

そういえば最近は、「もうほんまに去年は大変やった〜。今も肺炎の治療続いてるけど。いつまで続くねん、ははは!」と笑える自分にも気がついた。
こうやって、少しづつ乳がんの治療をした自分を受け入れていくことができるようになった今年の夏。
一歩前進!

前にも少しnoteに書いたけれど、告知されて標準治療をすることが決まった時、初回の化学療法の前日まで治療をするかどうかで悩んでいた。
友達にも弟にも治療したくないと言って困らせた。
左胸はトリプルネガティブ ⅢAで、抗がん剤が効く気がしなかったし、右はルミナルタイプだし、両胸なくなるなんて。
腕が上がらなくなるし、抗がん剤でボロボロになっていく患者さんをたくさん見てきたから、このまま潔く人生を終わらせてもいいのではないかと思った。

でも、もう用意された治療の電車に乗ってそれを降りる勇気もなかった。
ぐずぐず言いながら、とりあえずやってみるけど、しんどかったら途中で止めると決めて、結局全部やり切った!
はははは!
やったな、私!

乳がんの治療をやるかどうか。
これが私の人生最大の選択だったなと思う。

人は誰も、今日何着るか、何を食べるか、といった日常的に小さな選択から、大きな事まで、常に選択と決定を繰り返しながら生きている。
大人になればなるほど、その内容は重要度が増すし責任も重いような気がする。

私のこれまでの大きな選択は、39歳で韓国に留学をしたこと、52歳でマンションを購入したことである。
どちらもワクワクする。
迷った時はワクワクして楽しそうな方を選ぶといい。
でも、乳がんの治療なんかちっともワクワクなんかしないし、しんどいことしかイメージできない。

それはただ、生きるためだけの究極の選択をだったと言える。


今思えば、あの辛い治療をがんばったから、今おいしいものを食べることができて、友達や弟に会えて、B'zのライブに行くことができているのだから、ワクワクする方を結果的に選んだとも言えるけれど・・・

私は独身だから今まで何かを決める時、なんでも自分で考えて決めてきた。
留学を決めた時も、マンションを購入する時も、家族や友達には事後報告だった。

でも、今回の乳がんの治療に関しては、家族や友達、そして結果説明に付き添ってくれた従兄にまで治療はしたくないと困らせた。
自分一人では決められなかった。
もちろんみんな、「主治医が治療をしていきましょうと言っているのだから、治療しようよ、協力するから。」と言ってくれた。
弟だけは、私の話を黙ってうんうんと聴いていた。
そして決定打の義妹の言葉『私たちは必ずお姉さんをサポートする。そう話し合っている。』で治療することを自分で決めた。

治療をしながら、人生は次々と目の前に現れる扉を開けていくようだと思った。
少し歩いていくと、いくつかの扉が現れてそのどれかを自分で開ける。
もちろん開けなかった方の扉から続く人生はない。
もしかしたら、扉が一つしかない時もある。
その時は扉を開けるかどうかだ。
乳がんを経験して新しい人生が始まった私にも、また次の扉が待っている。

未来のことは誰にもわからない。
治療がうまくいったから、今は治療を受けてよかったと思えるだけだ。
でも、あの時、周りの意見を聞いて治療をするという選択をしてよかったと心から思うし、治療をうけるようサポートしてくれた家族や友達には本当に感謝している。

また、新しい扉が現れた時には、自分で選んで自分で開けてみよう。
そして、私が選んだ私の人生が最高に良かったと思えるように生きてみよう。
きっと、扉の向こうではのび太くんとドラえもんがニコニコ笑って待っていてくれるに違いない。

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