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わたしとは?

「今、わたしは何故生きているんだろう?」

 痛々しい中高生の頃だとか、人生つらくてどうしようもないときとかに考えがちなことではある。まぁ中高生がその問いを発する理由は、己が誰からしても特別な存在である、と暗に思ってるからだろうし、辛いときにその問いを浮かべるのは、ただ己の生に客観的な指針をつけて今の自分を正当化したいだけだろうけど。自分を何か正当化してくれる素晴らしい不思議パワーが欲しいだけで、べつに微塵も肯定感を与えてくれはしない冷たい事実なんて求めてはいないのだろうけど。

 わたしも痛々しい中高生なので、暗に誰も答えなんて求めていないだろうこの問いに今回はなんとなくで答えを見ていく。

 この問いは、構成要素を二つにわけることができると考える。「何故今にいたるこのときに至る際、わたしは生きているのか」と、「わたしは何故生きているという現状を阻害することなくいるのか」である。今わたしが生きてると思っていて、なおかつその生を投棄しなければわたしはこの時を生きていることになるだろう。

 一つ目の、「何故今にいたるこのときに至る際、わたしは生きているのか」についてだが、これは自身が行動する前の状況のことである。これの答えを考える。

 「父親と母親から生まれて、そこから丁寧に育てられたから」だというつもりは無い。別にそんなことなくたってわたしは生きていたと宣うわけではない。(存在する前提で書くが)読者は世界五分前仮説を知っているだろうか。簡単に言えば5分前に、長い時間をかけて出来たかのような世界が生まれた、という説である。何が言いたいのかと言うと、記憶の過去という、あるかどうかすら曖昧なものは、それが絶対的に存在するものとしては今回の推論には使用するつもりは無い、ということである。

 それと近い理由で、「他人から私がいると確認できるから」という理由もここでは除かせてもらう。それが妄想でないということを確定事項にするすべはないからである。

 そうすると、一つ目の問いの答えとしては、「己が今生きていると認識しているから」という理由とも言えない理由が浮かぶ。すなわち自身でそう認識することを選んでいるのだろう。そうしないことを選んでいないという消極的選択もあるだろうが、選択は選択だ。

 では二つ目の「わたしは何故生きているという現状を阻害することなくいるのか」という問いについて考える。

 わたしは決してそれを推奨しているわけではないが、この世界、自殺する方法なんていくらでもある。練炭、入水、首吊り、線路への飛び込み、なんなら今これを読んでる読者の近くにある窓に手をかけ、そのまま四肢を放り出すだけでいい。人間なんて脆いもの、多少の苦痛を代償にでもすればすぐに生を捨てることができるだろう。

 じゃあ何故しないのか?する気がないからだろう。要は「死ぬ気がないから死んでない」のだ。

 つまりまとめると、「わたしというものは、自分が生きてると思っているし、死ぬ気もないから生きている」のである。端的に言えば自分のせいである。

 この結論に違和感を感じるのは理解ができる。「自己をわたしだと認知しなければわたしではないけれど、その認知している何かはあり続けるではないか」と。ただそれは確かに「わたし」ではないし、「わたし」にとっては見知らぬ何かでしかない。屁理屈と言われればそうなのかもしれないが、事実ではある。

 さてさて、たいそうな過程を得た割にサルでも思いつくような結論が出たところで話を進めたい。

 皆、「己が今生きていると認識している」だろうけども、この選択を能動的に選択した人間は何人いるだろうか?皆、「死ぬ気がない」のだろうけども、自己が確立した明確な目的において能動的に死なないことを選択した人間は何人いるだろうか?

 多くの人は、「別に疑う必要もない」から己の存在を盲目的に信じ、「死ぬのは痛いし怖いしそこまでする理由もない」から積極的な理由もなく死を避けているだろう。

 それは、明確な己の存在を元に選択したと言えるのだろうか?マリオネットのように動かされているのではなかろうか?

 運命論を信仰しているわけではないが、別にわたしの枠にあなた以外の存在が入っても、別に側から見たわたしの枠にいる存在は変わらないのではないだろうか?

 満月の月の下、風にたなびくススキの景色を思い浮かべる。その中からススキの一本を取り出して観察する。周りのススキと同じように風にたなびく一本のススキ。それを見ているあなたは、果たしてそのススキが自らの意志で揺れているなんて考えるだろうか?ただ「風にススキが揺れてる」と思うだろう。

 風に揺れてるススキと、受動的に歩く人、果たして何が違うのだろうか?本当は、ただ風に揺れるように、揺蕩っているだけで、自我を持つ夢を見ているのではないのだろうか?その自我は偽物で、本当はわたしなんていないのではなかろうか?

 否定することはできない。肯定も難しいわけだが。マァ、否定できなければ真実ではあるだろう。

 そうすると、「わたしが生きている」というこのと、「わたしは存在しない」ということ、二律背反が同時に成り立つことになる。どちらが間違いなのか?多くの人はそう考えるかもしれないが、その考えは過ちだろうとわたしは思う。

 そもそもこの二つの結論は、仮定が違うのだ。前者は「わたしが生きていると認識している」、後者は「世界がありその中にわたしがいる」といったように。当然のことだが、同じ世界のことだろうと、仮定が異なれば結論も異なる。アキレスとカメ、というパラドックスが存在するが、あれは「アキレスがカメを引き抜く世界」と、「アキレスがカメを抜けない世界」では、時間の流れ方という仮定が異なるのだ。

 つまるところ、どちらが間違いというわけでもないとわたしは考える。アキレスはカメを引き抜けるし、一生抜くことはできない。それは、一見相反することのように見えるが、仮定が異なるために、別に矛盾していることでもなんでもないことだと考える。視点が異なるだけで、どちらも真実なのである。

 ここで本題に戻るが、わたしというものは存在しているし、存在していない、というように考えられる。ここから言えるのは、「わたしというものは、少なくとも誰にとっても存在する、絶対的存在ではない」ということである。絶対的でない、すなわち私たちは相対的な存在であるということである。

 初めの話に戻るが、中高生や人生がどうしようもなく辛い人は、絶対的な自己を肯定する何かを求めて自己の存在を問うが、そんなものはないのである。別に何か絶対的なものが己を肯定してくれることはないのである。「救済を与える神」はいないのである。ありきたりな結論ではあるが、自己を肯定できるのは己だけなのである。何かにすがるのではなく、自分で、選択するしかないのである。

 何か超次元的な何かが肯定を与えてくれると思うなら諦めるべきだろう。現実は未観測には溢れているが、未知には溢れていない。無謀な妄信なら捨てて、前に進む方が生産的だろう。

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