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ちょっとした思考のまとめ


 「私の疑念」と「私の視野」というものは、たしかに私というわけのわからぬものに統合されちまってはいるが当然別のものである。当たり前だが、考えていることと見えてるものは異なる。
 「同じ私のものとカテゴライズされている」という認識があるというのは正しいが同じものではない。少なくともこの架空の私を仮定と置いた視野でない限り。

 嘘によりそれを別のものとして扱うことができるものを吐き出す。存在は不完全であり、かつ嘘を内包している。そしてこれを嘘と統合することを止揚というのかも知らない。止揚は数を減らし、嘘は数を増やす…少しずつ嘘が増えて多彩化していき、次第に止揚が増えて減って最後は消える…直線の一方の端から徐々に増え、天秤が狂い徐々に下がってもう一方の端で消える…直線の端なぞないが、あるとするならば直線は数字を超えた値の半径を持つ円なのだと思う。いずれは帰ってくるというか。一方的な変化なはずなのに帰ってくる。

 あらゆる物質幸福が満たされ、こじつけじみた屁理屈しか差額としての価値を成せなくなったときに、残酷な平等がなされるんではなかろうか。

 平等、だなんて言ってしまってはいるが、生まれも育ちも名前も今立ってる場所も何もかも違うのにむしろ何がどう同じにできるというのか、わたしにはわからない。
 いい悪いは別として、平等というものはつまる話もっと「恵まれていない人」に「恵まれた人」からものを寄越せ、といってるのだと思える。
 別に良くも悪くもない。ただどう分配するかしないか辺りの話は政治情勢による話で、それを振るう際に合成甘味料として平等を振るうのかもしれないけど、精神的な話で妥協点としては「平等ではないが対等」だと思う。アドラー心理学のそれ。それができないのに平等なんぞがあるはずねぇ。

 私は別に綺麗事は好きというわけではないが、綺麗事の方が、人間らしい「情の無さ」の持ち主よりは幾ばくかましだ。

 かくあるべしと綺麗事に基づき行動してる方が、情のないそれよりはまだいいよ。綺麗事が真実であるという思い込みしかない人はそれ以下かもしれないが。

 Aというものがあって、それがBだということに正の符号を付けている人がいたとしても、

・「AはBであるのは真理である」と、それが真理であることを前提に行動し、それに反する視界のものに不快感を示す

・「AはBであるべきだ」と、積極的にかくあるように変化していくように外部に働きかけをする

 この二つであまりにも大きな差が出てしまう。前者とばかりの人には関わりたくはないな。完全に否定して仕舞えば私たちは呼吸もできなくなってしまうんだけども。

 「私」という言葉がそもそも他者から見た私という、まず己を是とした世界では存在し得ない言葉である。ただ世界があるがままある、という状態でも存在し得ないので、二つが曖昧不完全な形で同居している時に現れるのだろうか。己が是とされた世界かつそれを意図せず世界も是として思考する、などと。思考は視野ではないのか?じゃあこれはなんだ?響きかな。

 直線の中から指定の点を選択することはできないが、選択した点を指定のものだということはできる。

 前者を不可能ながらに必死こいてやるのが「何か」なんじゃあなかろうか。

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