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8月20日の無機物語り

☆ 

 この文章は調子の悪い時に考えていたことのメモか、独白のようなものです。

私が実は人間よりも実は石に近しいと言っても、五感を、意識を丁重にもとのない状態へと戻したところで、人間の体というものはそれを無理矢理開けようとするもので、「あなたは人間ですよ、おはようございます」と私の体を優しく揺らし、私のない自我を無理に萌芽させて目覚めさせるのです。

私は実は石なのだ、と宣ったとて、どうやら他者としては人にしか見えないらしく、あたかも私が人であるのように取り扱い、存在しない機能を無理に引き出そうとするのです。

それは極めて普通のことなのです、そういうものなのです。彼らからすれば一人の人が何もかもを放棄して人に全ての責任を押し付けようというように見えるのですから。

別に責任を押すつもりもなく、ただ肉体が腐ればただ腐った、ただ死ねばただ死んだ、という事実を事実として異常に受け止める機能は石にはありません。ただの様でしかないので。

ただ実は人間のような見た目の生き物の中に石がいる、という事実はとても不都合があり、そして難しいらしいです。それ故にこの文言を打ち込んでいる存在が石であるという事実を無視するというのは、知らないということは、正しい選択であるのです。

石に無理な力をかければ普通に割れるだけなのですが、人間であれば石が割れるような力のかけ方では別に割れません。もっとも、それよりも簡単に壊せるのではありましょうが。

やっていいことがある、行けないことがある、意思がある、ものとものの間に境界がある、責任とか権利とか運命とか偶然とかを想起できる、これらは全て人に存在するものであり、それは机や椅子、石が生きていると仮定するならば彼らは保有していない考えです。

そんな、動けも何もしない石に対して、うごけ、うごけ、うごけ、動かないということは動きたくないことだな、そういうことだよな、動きたいか動きたくないかしかないんだよ、と語りかけることはわたしには残酷であると思うのだが、それは私が「残酷だ」と言えるくらいには存在している、ということの証左なのです。いっそのこといないほうが都合がいい、という程度には私はいるのです。四捨五入すれば0人とはいえ、肉片みたいなサイズでも小数の値でも人は人です。

ほとんど石なので、ほとんど石ってことにしてあげることがわかってあげることだとは思うのですが、別にわかってあげるメリットというのは特に存在しないので誰も悪いとかいいとか、そういう事象はないのです。

ただ石が少し割れただけです。少し人の部分があるので少しずつ再生するものです。

再生しなきゃいいのにね

何があったというわけでもなく、 ただ、人としての生活に少しずつ、固い体に少しずつ圧を受け、ヒビが入ってはそれが少しずつ再生する、を繰り返しているだけであります。

呼吸をする、という行為がよくわからなくなっていたのはここ最近ずっと続いていたことで

ドラマを眺めていればあまりにも人間で耐えられなくなって切るほどに 自身の内部に五感を鈍くしようという傾向があるが皮膚、触覚に関してはいじることができないのである。

視覚は度が低いメガネをかけている 嗅覚は常に鼻炎で詰まっている 味覚は知らないが鈍いようだ 聴覚はヘッドホンで潰している

石になってしまいたい、というよりは八割が石なのである。

この自我の薄さというものは自己の思考感情が保存されないことに起因しているだろうか 単なる飽き性というものなのだろうか 知ってもしょうがないが

それは記憶力のなさに対する八つ当たりに近しいものであろう

あなたが人間であるとするならば、それはおかしいという人間への非難の形は、裏返せばそれは無機物であったならよろしい、という意味に取れる

同族嫌悪的なものを日々憎しみと誤認して書き連ねているのであろうか、否存在しない人間については語りようがない、ダブルスタンダードまみれである

産まれなきゃよかったなんてつまらないことを申す意図も、あいつが悪いだこいつが悪いだと人間のような八つ当たりを行う意図もなく、ただとある石にヒビが入っています、という様を記述しているという現象に過ぎないのであります。

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