オリンピックがわからない。


 オリンピックがわからない。

 なんとなくはわかる。たぶん、世界平和を謳うものだ。この時はみんな戦争をせずに平和に競い合いましょう、みたいなやつだ。平和の祭典という言葉を聞いたことがあるので、それもたぶんオリンピックにまつわるものなのだろう。平和、割と好きな言葉です。

 自分は、都会からは遠い土地に生まれた。いわゆる田舎だ。そんなところで二十過ぎまでぐうたら過ごして、こうしてスマホをぽちぽちいじって寝て仕事して生きている。
 色々あって家は貧困一歩手前なのだが、それを理由に家にはないものがある。
 まず家には、クーラーがない。毎年扇風機と大量に冷やした麦茶と塩タブレットで生きてる。まじで熱中症に気をつけてくれ。正直シャレにならんくらい暑い。激ヤバ。恩恵としては平均室温34℃の我が家では蚊が撲滅された。だがクーラーのあるご家庭はぜひ蚊取り線香や手のひらで圧死させて撲滅してほしい。びば文明の利器と人間の器用さ。フル活用してナンボ。
 次に家には、テレビがない。テレビ自体はあるのだがそれをつけても砂嵐なのだ。マヒルにつけてもマヨナカにつけても砂嵐。ビガビガ。なんのためにあるかと問われれば、録画した番組を見る用である。このご時世にVHSビデオテープが今日もキュルキュルと言いながら三週間遅れのドラマを流してくれていた。最近ボロくなってきて再生がおぼつかないが、我が家の大事な娯楽の一つである。
 ちなみにクーラーとテレビがない生活でも、案外困ったことはない。たしかにある分だけいいこともあるのだが、かれこれ五年ほどこの生活なので慣れてしまったのだ。人間慣れればなんとでもなるんだな、と扇風機を抱えてこの文をポチポチしている。一生離さん。

 話が戻るのだが、オリンピックが開催されたらしい。「らしい」というのは実際には観ていないからだ。たしかにテレビがなくともスマホで情報を集めたりすることはできるのだが、SNSも自分がプレイしたゲームの感想や好きな展開や描写などを呟くことが多いので、その結果、検索やトレンドなどにオリンピックや政治の話がほぼゼロに近い状態になっている。先ほど確認したらトレンドがチェコになっていた。だがチェコの言葉どころか英語もおぼつかないので「今日はaとeが多いな」と楽しんでいる。
 そんな生活の中で気づいたことがある。
 都会からも遠く、テレビもなく、新聞もとっていない我が家ではオリンピックの話が1ミリも出なかった。あるとしたらワクチンや感染者、選挙の話くらいだ。オリンピックのオの字もなかった。だから、オリンピックが開催されているらしいSNSの様子を見ても「なんかゲーム曲が紹介されてる番組が全国区で放送されているんだな」と思った。歌番組ではなくオリンピックだった。全然違った。
 だが、いくら情報源がSNSや奥様方の噂話しかないような我が家でも家族の誰かがオリンピックに興味があれば一品しかないおかずを食べ終わる前に夕飯の席で「オリンピック、もうすぐだね」と言うのではないかと思った。
家族に聞いた。オリンピック、どう?
家族が言った。もう開催してたんだ。
家族は聞いた。オリンピック、みたい?
自分も言った。いや、別に。
 その理由は自分の生活が何も変わっていなかったからだ。暑いと言いながら起きて、暑いと言いながら仕事して、暑いと言いながら帰る。暑い。クソほど暑い。まだ七月って正気か。八月どうなっちまうんだ。わかる、と家族は汗をかきながら言った。
 とどのつまり、我が家の話題優先順位の中でオリンピックはそこまで地位を確立していなかったのだ。我が家は来月どうやって生き抜くか、が一番の優先順位であり、遠い土地で行われてる世界規模の大会は雲の上の話だった。
オリンピックは、知らない世界の平和の、祭典だった。

 ぶっちゃけオリンピックに対して、思うところはある。最初に延期した時はまだ情報源として職場が機能していたので、「もうこのまま中止にして、その浮いた分のお金でもっと生きやすくて楽しい世界にしてくれたらいいのに」と思いながら皿を洗っていた。
開催が近づき世界の話題が平和の祭典になるにつれて自分の情報源は、チェコになった。

 オリンピックがわからない。
 それがもたらす恩恵だってあるのだろうし、逆にそれがもたらす問題もあるのだろう。聞き齧った話だが、都会の感染者数が大変なことになっていた。関係があるのかはわからないが、関係がないと嬉しい、と思いながらも、関係はゼロではないんだろうなと思う。
 スポーツ観戦は嫌いではないし、スポーツマンも尊敬する人物が多い。かっこいい。オリンピックで活躍するのが夢です、と語る人物に頑張って!と思ったことも一度や二度ではない。オリンピックは、きっといろんな人たちの努力が叶う素晴らしいものなのだ。
 ただ、自分は知らない世界で行われることに、ついていけなかった。紙吹雪が舞う中、一人だけ地べたに座り込んでいる気分だった。
 自分の知っている世界は、あまりにもその世界の輝きや美しさとは程遠いものだった。
 貧困家庭で育ち、今も来月生きていられるかわからないほどの生活だ。それでも毎日笑ってご飯を食べて、平和に生きている。
 自分の世界の平和は、四畳半のリビングに座っている。
 テレビの向こう側にある世界との交流を絶っていても、扇風機を抱擁し麦茶を飲み、家族の手料理を食べ、スマホを弄りながら顔も知らない親友たちと話すことが自分の世界の平和だ。

 開催中止、という言葉を見たがそれもその人たちが自分の世界の平和を守るために出した結論なのだろう。
 世界は人の数だけ無限にある。誰かの世界の平和を保つために、他の世界の平和を害してはならない。
 誰かの、どこかの平和が保たれている象徴がオリンピックなのだとしたら、きっとそれは素晴らしいことなのだと思う。大多数の人の、国も性別も年齢も種族も超えた先にある平和を体現した祭典。人々の反省、多くの諍いの先にあるものだとしたら後世にも残すべきなのだろう。
 だけど、忘れないでほしいと思った。
 その大多数の平和の世界を知らない世界があることも、その大多数の平和の世界を許容できない世界があることも、見捨てないで欲しいと思う。見ないふりをしないで欲しいと思う。
 世界の平和の祭典だというならば、地獄も天国も他の世界もまとめて平和にしてはくれないか。
 平和にしてくれたなら、もっと生きやすくて楽しい世界にしてくれたなら、もっと。知らない世界でも知りたいと思う気がする。


 オリンピックがわからない。
 オリンピックがわかったら、きっとこの世界も楽しくなると、そう思った。

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