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湧水とお坊さん

今年夏に訪ねたあるお寺は、境内に水量豊富な湧水があって、誰でも飲めるようになっていた。その甘露味たるや、ことばでは表せないほどだが、その水には壮絶な由来伝説があった。
昔々、当地の井戸が枯れてしまい、皆困っていたところへあるお坊さんが来る。村人のために一肌脱ぐことを決意したお坊さんは、自分の血を使っての写経、長時間の坐禅や凄まじい断食、祈禱を続け、疲れ果て、無念の思いで金剛杖にすがったその時、その水が噴き出したのだという。

これを思い出して思い出したのが、以前、某県某所のあるお坊さんからうかがったご本人の体験談だ。どこのどなたのことかは明かせないので、多少ぼかして書くと――。

そのお坊さんのご自坊は、海岸から10kmほど内陸に入った農村にある。地域の皆さんは、ほとんどが農業者。村の土地は山々に挟まれていて、鳥瞰すれば細長いはずだが、かなり広々と開けているので、山間と平野の中間といった印象を受ける。見渡して目に入るものといえば、田んぼ、畑、それに少しの果樹園と山。そして、田んぼより一段高い場所に並ぶ家々と、平らな農地にところどころ、島のように浮かぶ、こんもりとした林。
縄文・弥生の遺跡があるくらいだから、当地の農業には長い歴史がある――と言って妥当かはわからないが、土壌は今も好適で、山々からもたらされる水は質が良く、量も依然十分であるそうだ。

お坊さんのお寺は、この村の中でも平地ではなく山沿いにある。平地を見下ろせる坂の上で、山を背に諸堂を構えていた。標高は知らないが、田んぼより100mくらい高い気がした。
山門の前を小川が流れ、サンショウウオやウナギ、何やら小さな魚やエビたちがいろいろとすんでいる。
「この川の護岸は、ウナギが日中隠れられるように、ところどころ、石と石の間にすきまをつくってあるんですよ。それから、サンショウウオといえばね、子どもの頃は、つかまえて、ちゅっと吸ったもんでしたよ。いや、こうやって、ちゅっとさ、吸って飲み込むの」
お坊さんは、右手の人差し指と親指でつまむ仕草をして、すぼめた口にそれをもっていった。

お寺の裏山には、この村の湧き水の一つがある。枝分かれした流れは、本堂の裏にある庭池に注いでいた。飲用にも適したおいしい水だそうで、お寺の生活用水と飲用水は、それと源を同じくするボーリング井戸水だと聞いた。
「お寺のあるこの集落は、水道がない家がまだ何軒かあるんですよ。まだないというか、ボーリング井戸でいい水が得られるから、必要がないんです」

さて、もう20年以上前のことだが、そんな村に、とある大会社の工場を誘致するという話が降って湧いた。当然、地元では環境への影響に関する研究が始まって、結局、地元農業者と、行政機関や議会が対立することとなった。背景については端折るが、お坊さんは農業者側。工場反対派である。

反対運動が始まってしばらくの後、工場で使用する地下水をくみ上げる井戸をつくるためのボーリングが始まった。お坊さんは、抗議活動の一環として日々一人でお経を唱えながら村をめぐり歩いていたが、そのボーリングの現場を見て、自分の無力を思い知らされたという。

「かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃーはーらみーたーじー、ってね、般若心経をお唱えしながら、でも心の中では、もういったいどうしたらいいのだろうって」
そして思わず錫杖を上げ、なんとなく、ボーリング現場の地面をコツン、コツンと突いたのだという。
「仏さま、なんとかしてくださいという思いですよ。そうしたら後日、そこから炭酸水が出た。で、それだと工場では使えないらしく、違う場所でまたボーリングが始まりました。私はまたそこへ行って、錫杖でコツン、コツンとやってみたんですよ。すると、そこからも炭酸水が出た」
水に恵まれた地域である。そこからそのような水が湧くとは、地元農家の方々も知らなかったことで、誰もが驚いたそうだ。

その結果、工場建設の計画は白紙に戻された、というのが出来事の顛末なのだが、この話、まるで昔のえらいお坊さんたちの霊験譚である。少し要素を補えば、そういう説話風にまとめられそうだ。

が、ここまで書いてきてなんだけれども、考えてみれば、お坊さんの行いによって水が湧いたり温泉が湧いたりといった伝説は各地にいくつもあるものの、(相手にとって)都合の悪い水が湧いて相手を退けたという型の話はあっただろうか。どこあにあるかもしれないが、思い当たらない。
お坊さんが山神や土地神などに対して戒を授け、仏弟子にしてしまい、その神がお坊さんや村人のために一肌脱ぐといった型の説話はあるけれども、それだって、何か毒水のようなものを噴出させて村を害する存在を退けるといった話はなさそうだ。H. G. ウェルズのSF小説『宇宙戦争』では、地球のどこにでもいるバクテリアが宇宙からの侵略者を退けるが、この逸話は、むしろそちらに近いのかもしれない。

といったところで、本当は、話はここからなのだけれども、とりあえず、投稿。