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青年よあそべ〜悲壮感ただよう学びじゃ意味ねぇよ〜(40)
1.専門知識の陳腐化
wikipedia、ブログ、Youtube…
ネット、SNSのおかげで大抵のことは調べれば出てくる時代だ。知識が庶民の手に取れるものになったおかげで、どこでもかしこでも知識知識知識…。学生も専門家も、口を開けば学ぶ必要性を語る。
もっと学ばないと…
専門知識の研修をやってほしい…
わかるよ。
知識は大事だ。
でもさ…
本当にそれでええの?
・・・・・・・
2.先に生きる人間として、知識に追われる背中を見せたいのか?
先生とは、先に生きる者。
本質的には、向き合う以上に背中を見せる存在であるべきだと思ってる。少なくとも子どもたちは、先生の中に生き方のモデルを見出していく。
背中を見せる
背中で魅せる
それが子どもの前に立つ大人の責務だと僕は思っている。そしてそれは、「学び続ける姿勢」とともに「しなやかに充実した時間を生きる」背中を見せることなのではないかと。
現場の苦悩から逃れたくて、追われるように知識を取り込む…。学ぶこと自体が自己治療…。そんな背中では「学びたい」と思えない。
学ぶ姿自体が充実感やかっこよさになっていればいい。そうじゃない人は、一旦学ぶことをやめたほうがいいと思う。悲壮感漂う学びは、きっとそれ自体の自分への効果も薄い。
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3.「学び」とは?
学びに悲壮感のただよってる人はたぶん…そもそも「学ぶ」の意味を履き違えてるように思う。
学びとは、知識を入れることだけではない。その使い方に習熟することもまた、本質的な学び。
悲壮感のただよってる人は、知識の使い方を学んでない。それはある意味で「使えない知識を溜め込んでる」という話。雑な言い方をすれば「ムダな努力」だ。
そういう人は一旦、インプットをやめて遊びに行ったほうがいい。
利害関係なく充実した時間を作る…そこに、知識の使い方に関する本質的な学びがある。全身に仕込んだ百の武器よりも、腹にくくった一本の槍の方が強いこともある。
武器を増やすことよりもまず、すでに持ってる武器(知識)を活かす方法を学んだほうがいい。武器の使い方に習熟すれば、今ある武器だけで成果は変わる。
発達支援の世界では「遊びこそ最上の学び」という考え方がある。夢中になって取り組むことで感覚や能力が限界以上に引き出されるからだ。遊びの中で鍛えられた様々な感覚、機能が、のちのち教科書からのインプットとその活用の土台になる。遊び上手は学び上手だ。
だから改めて言いたい。
「学ばなきゃ…」と思っている人へ
まず、本なんか捨てて遊びに行ってこい。できるなら自分の倫理観から外れた体験をしたほうがいい。その経験が、必ず仕事に生きてくる。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。