実力と生きづらさの関係
1.へいなかの運動事情
僕は基本的に毎朝30分程度ランニングしている。そんなに速いペースではなく、正確にはランニングというより「ジョギング」だ。
毎日ではないが筋トレもわりと習慣的に行っていて、ガッツリ筋肉痛になることもある。腕立て伏せだと調子にもよるが連続30〜40回が限界。全然筋肉質ではないし、むしろ着実に中年太りしつつある感じ。
ただ…
たぶんだけど38歳の平均にくらべれば遥かに運動できる方だと思う。
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2.筋肉痛と筋力の関係
筋肉痛などのダメージなくこなせるもの。もちろん一日に何セットも繰り返せば筋肉痛になるが、毎朝1セットなら身体にダメージはない。
でも
これはあくまでも僕の話。
性別・年齢・運動習慣など…様々な条件の総合的な「運動能力」によってはこれで大ダメージになる人もいるし、僕より余裕でこなせる人もいる。
筋肉痛になるかどうかは、メニューだけでは決まらず、その人の運動能力との関係によって変わってくるという話。
とっても簡単に言えば、運動能力がメニューより下ならダメージが出る。逆ならダメージはないということ。
そしてこれは、筋肉に限った話ではない。
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3.ストレスの話
とってもあたり前の話だが、仕事によるストレスも育児によるストレスも、パートナーとの関係におけるストレスも…その人の実力によって増減する。
同じ職場
同じ子ども
同じパートナーでも…
それに対応するこちら側の実力次第でどれだけストレスを感じるかは変わる。
もちろん良好な職場環境や賢くて穏やかな子ども、常識的で配慮のあるパートナーならストレスなくやっていけるのは事実だが、そうでない場合でも、こちらの実力次第でストレスの質も量も変わってくるわけだ。
これは善悪や責任の話ではない。
誰の責任かはともかく、「実力不足だからストレスフルになっている」という側面は存在しているんだ。
社会福祉が充実し善意の人が少なくないこの国では…弱者として生き、その責任を社会に求め、変革の必要性を訴えて人に頼ればそれなりに主役になれる。
善意の人たちはなんのスキルもなくただ善意で人を助けようとするから、弱者の声には無条件で手を差し伸べる。
それが必要なことも多い。
とっても大事なことだ。
が
その一方で、本人の考え方の変革や技術の向上によって軽減する生きづらさがあるのも事実。そこに気づいて真剣に手を打つ支援者はあまりいない。
というか、思考や技術の変革というプロセスをイメージできない支援者が多い。
無条件で手を差し伸べる人だけでは不十分。社会の変革も必要だし、そこに社会の責任もあるだろうが…誰の責任だろうと変革は遅々として進まない。一人の人間の人生からすれば、ほぼなにも起きずに人生の大半が終わっていく。
その人の生きづらさを軽減するには、その人自身が変わるのが圧倒的に速い。
同じ現実に対して、その人自身の変革を支援することで生きづらさを軽減していく…
そういう感覚で人と向き合う人間が、この国にはまだまだ足りてない。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。