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「”自分とは異なるあり方”の想像」と「”異なる条件下での自分”の想像」
相手が非行少年でも障害児でも
それ以外のどんな人でも…
俺ならそうはしないな…
という行動に触れた時、僕はいつも「俺がその行動を取るにはどんな条件が必要か?」を考える。
僕は杖をつかないが、杖をついて歩くことがあるとしたら、足が不自由か目が見えないか、ファッションだ。
僕は基本的にキュウリを食べないが、もりもりキュウリ食べてる人がいたらきっと、僕がとっても苦手なあの緑の野菜をとっても美味しく感じているか、とにもかくにも死ぬほど腹が減ってるかだ。
自分がやらない行動を他者がしているということは、僕には避ける理由があるし、その人にはそれをする理由がある。「自分がやらない理由」と「他者がやる理由」の両方をきちんと考えることができれば、他者の行動への理解は8割完了したようなもんだ。
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そういう意味で「”自分とは異なるあり方”を想像すること」は大事。
自分の中にあるものをきちんと認識して、そのうちの何かが足りなかったり違っていたり、もしくは別の何かが加わっていれば、結果として今の自分とは異なる行動を取る。
キュウリをおいしく感じられない僕には、「店で冷やし中華を頼む」は基本的には出てこない行動だけど…
おいしく感じる感覚があれば、夏は結構な割合で冷やし中華を食べに行く気がしている。また、キュウリ自体は嫌いでも、「店でキュウリをよけることの恥じらいと申し訳なさ」が僕の中からなくなれば、やっぱり僕は町の中華屋で冷やし中華を頼むかもしれない。頼んだ上でキュウリをよけておいしく食べる。
店で冷やし中華を頼む
そんな簡単なことだけど、僕がそれをやるにはいくつかの障壁があって、そのうちどれか一個でも条件が変われば、僕は普通に店で頼む。可能性はほかにもたくさん思いつく。
こうやって今の自分とは異なるあり方を想像できれば、他者の行動を理解するのもそう難しいことじゃない。(とはいえ僕も、常に人の行動を分析しまくって生きてるわけじゃないけれど。)
僕が基本的に人を嫌いにならないのは、こうやって自分とは異なるあり方や行動原理を想像できるからだろうと思う。
その上で…
そうした「異なるあり方の想像」とはちょっと違うアプローチが、特に世代をまたぐ他者理解には大事だと思ってる。それが「”異なる条件下での自分”の想像」だ。
自分の中にある条件(キュウリを不味く感じるとか、店でキュウリをよけるのは恥ずかしいとか)ではなく、自分の中の条件はすべてそのままで、外側の条件を変えてみるということ。
簡単に言えば…
自分が別の時代に生きていたら…
自分が別の地域で生きていたら…
自分が○○だったら…
と想像することだ。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。