浴室

I

 洗面鏡に備え付けられたスイッチに触れ僅かに力を入れる。プラスチックの枠が撓み、指先の傾斜が滑り落ちる。乾いた音。橙色の灯りが点く。眼前の電球が熱を放ち始め薄い瞼が熱くなる。台所から差し込む光は姿を消し、朧気な部屋の輪郭は掘り起こされ、露わになった影は無防備な縁を纏う。肌寒い季節、明かりの色は暖かい。白い壁紙、白い洗面台、白い洗濯機、白い色の全てが夜の許で陽に染まる。あるいは秋の色。その下で服を脱ぐ。積み重ねられた衣服。籠の中の占拠者は自身の権利を主張し騒ぎ出す。手放すことを知らない彼らは得ることなく失っていく。もう一つのスイッチ。固く鈍い音がする。あてのない行為、あてのない所作が繰り返され、すりガラスの向こうにまた灯がともる。この明かりの色も暖かい。淡い幕屋。窓は深く沈み、暗く透き通った月が昇る。過ぎることのない時。ドアノブに手を伸ばす。焦点のずれた痛みが冷たく背中に突き刺さり、体に驚きが満ちる。硬直した手首、擦れ合う軋み、無機質な響きが内に溢れ脆さがそれを優しく包み込む。次の瞬間、ささやかな喜びが訪れる。緩んだ掌からすり抜けたドアノブは弾けるように小さく飛び跳ねて、小さな溜息と一筋の光が混じり合う。そして扉は控えめに、素朴な仕草でゆっくりと身を引いた。

II

 剥き出しの床、剥き出しの壁、剥き出しの天井に弱々しく身を寄せて、閉じた眠りが目を覚ます。取り残された水滴は微かな火花を抱え、与えられた名を口に秘める。迎え入れられるのを待ちながら、覆うのは眩い帳。多くの者が去っていく。持てる全てを捧げても、不在の痕跡が代わりに積み重なり、求める地は遠くなる。呼び声がする。投げ入れた網を潜り、掬い取ることのできない奥底で、形は再び成され始め、仮庵が拙く土の上に建つ。規則正しく連なる山々、水面高い湖、果ての無い葦の一叢。その間を擦り抜け素足を踏み入れる。指の隙間に柔らかい流れが伝い、器用に捕らわれ絡み付く。取り繕われた綻びは解け、肌が仄かに照らされる。凍った棘が胸を締め付け、止まった感覚が動き出す。不意に彼方から波が押し寄せる。永い時間を掛けて幕間から満ち、年月を掛けて砕け散りながら漂う子の手を取り離れていく。終わりの景色。静寂が足元に打ち上げられる。一羽の鳥がいた。艶のある黒い羽根、長く揃った尾、折り畳まれた大きな翼、鋭く厚い嘴、太く折れ曲がった足に短く反った爪。浴槽の縁、首を傾げ、時折体を震わせる。手を伸ばし取っ手を回す。水の勢いが少しずつ増し、絶え間なく降り注ぐ。扉は開かれたまま。そして濡れた瞳は限りない今に開かれた。

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