晩餐会

 夕食に誘われ友人の家に出かける。約束の時間に間に合うように家を出て、少し早めに着いた。三階まで階段を上がり、くぐもった長い廊下の奥へと進む。部屋を幾つか通り過ぎ、深い藍色をした扉の前に立ち止まる。扉を打つ。乾いた音が廊下に響き、すぐに静けさが戻る。もう一度扉を打つ。物音ひとつ聞こえない。灯りが微かな振動とともに瞬いている。仕方なく握りに触れ、回す。鍵は掛かっていなかった。

 部屋に入り名を呼ぶ。居間へと向かう。そこに幾人かの先客がいた。見知った顔はなく、それぞれ正装をしていた。彼らは銘々に目を閉じ黙し、互いに距離を取って俯いている。辺りを見回すも友人はいないようだった。見知らぬ他人に久しぶりの再会を邪魔された気分になり、少々落胆する。そういえば彼の交友関係については何も知らない。今夜の催しはどのようなものになるのだろうか。

 姿をまだ現さない友人を待つ間、うろうろと部屋を巡ってみる。たとえ友人の招待客であっても、見知らぬ他人に話し掛けるのは躊躇われ、独りで時間を潰す。空の本棚、背の高い笠付きの照明、引き出しのない机、楕円形の食卓。部屋は整然としている。数脚の椅子と擦り切れたソファも置かれているが、すでに先客が座っていた。部屋を巡る自分の足音に混じり、静寂に満ちた空間に鼾が漂う。

 座った客達は頭を胸の裡に沈め、手を股の間に垂らし、眠っていた。窓から夕暮れの光が居間に差し込み、窓枠が生み出す陰影に室内の装いが変わっていく。不規則な鼾の拍子が時折重なり合う。誰かを迎えに行っているのかもしれない。そう自分を納得させ、眠る彼らを起こさないように気を遣い、同じ場所を何度も見て回る。写真が暖炉の上に立ててある。若く屈託のない笑顔の上に埃がうっすらと積もっていた。

 客が増えたようだ。居間が先刻よりも狭くなる。無造作に立ち並ぶ彼らも正装をし、目を閉じ俯いている。会話を交わしている者は誰一人いない。漠然とした不安が心の襞から顔を覗かせ、逃げ出したくなる。折り重なる頭の隙間を縫い、友人の顔を探すが見当たらない。場違いな集いに呑気に期待まで膨らませて飛び込んだことを後悔する。思わぬ状況にどう振る舞っていいのかも分からず、暫しの間立ち尽くす。

 いつの間にかまた客が増えたようだ。続々と集まる見知らぬ客達。周りに気を遣いながら場所を開け、卑下した控えめな態度で足場を譲るうちに、部屋の奥へと追いやられ、気が付くと右肩が突き当りの窓にぶつかった。かつて親しかったはずの友人の不手際に腹が立ち、苛立ちを濁った窓の外へと向ける。空は暗く、欅の朧げな葉先が揺らいでいる。眼前に街が広がり、外套を羽織った影が足早に行き交っていた。

 服の上から熱を感じる。部屋に視線を戻すと人間が聳え、立ち塞がっていた。上着が触れ合う。首を伸ばすが連なる頭頂部が視界を覆い尽し、行き着く先が見えない。友人の顔を探すも、どうしても見つけることができず、渇いた喉が締め付けられていく。燻った埃が舞う部屋の中で、自らを詰め込み、自らで溢れた肉体に支えられ、眠りの海で船を漕ぐ客達は、蒸留した夜霧のように頭を揺らしていた。

 逃げ場のない集団の奥底で、不安定な頭蓋と立ち昇る恐怖が降り掛かってくる。入ってきた扉は遥か彼方。手さえ動かすことができず、圧迫され、満足に息をすることもできない。縮んだ胃が喉元へと押し上げられ、胃液の匂いが鼻腔を刺した。無駄だと分かりながら無意識のうちに、救い主を窓の外に求める。投げかけられた行き場のない目線は瓦礫となって地に落ちる。月が頭上から部屋を、銀色の光で覆った。

 無秩序な眠りが徐々に激しくなり、俄かに調子が合い始めた。小さな揺らぎが寄り集まり、うねりの塊へと胎動する。天井が軋み出す。すでに逃げ出すことしか頭にない。何とか身を捩る。しかし、もがけばもがくほど体に、溶け出した集団の無意識の裡に育つ四肢が絡み付く。覚めることのない意識の産声が洗面台から溢れ出す水のように壁に染み渡り、部屋全体が、そして建物そのものが共振を始めた。

 振動はさらに大きくなる。建物の上げる全ての悲鳴が混じり合い、撓んだ硝子が引き攣った一人の男の顔を映し出す。我慢が出来なくなり大きな声で助けを呼ぶ。声はどこにも届かない。自分の叫びさえも聞こえない。今にも砕け散りそうな硝子に、今にも砕け散りそうな顔をした男が、パクパクと口を開け閉めし、波間から救いを求めもがきながら、不意に生じた朝の余白に埋もれ、部屋の中に掻き消えた。

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