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街裏ぴんくは「現実的」だ

街裏ぴんく独演会「六人のマーチ」(兼、義非高校卒業式)を観に行った。

ぴんくさんの話は、あり得てもいいけど確率は限りなく低い、ということの連鎖で成り立っている話なんだと思った。だから「現実」の話ではあるんだ。街裏ぴんくはファンタジーではなく、「現実」を話している。おそらくこれは大事。現実がそうであり得てしまうというその極小の可能性が笑いを底支えしている。

現実的な論理、倫理の解像度をそのままにしてチグハグな論理と奇抜な倫理の世界が語られるから、聴き手には「非現実的な世界の現実味」が真に迫ってくる。

ぴんくさんの話は、すごく要素を微分していったら「ありそう」な要素しかなくなるんじゃないか。それが連結したときに奇妙なものになっていく。

まあでも、登場人物の価値判断はおかしいんだろうな。常識的には。でも可能性としてはあり得なくはない、というところをついている。

ところで「バーサス」は性的な話だった。不良グループでの「いちご大福」とおばあちゃんに言う「いちご大福」は違ういちご大福だという箇所は痺れた。それは真実だから。あれはすごかった。

街裏ぴんくはとても「現実的」だ、というのはこれからもっと考えたい。

「この現実とは別の世界」ではなく「この現実はこうでもあり得た」の提示。この現実が軋み、歪み、ズレたときには、漫談の世界が現れるかもしれない。現実の「ひび割れ」の極例の提示。

街裏ぴんくは、漫談に登場した「矢打和永吉」よろしく、現実の「壁」に突進し、あるいは厳重な施錠を解除し、壁の向こう側にある「非現実的な現実」の景色を垣間見せる。「この現実」の「こうでもあり得た」姿を鮮烈に描き出す。今あるこの現実はこうでなくてもいいはずだ、ということを考えさせてくれる。

目の前の現実が、世界が、生活が、「こうでない仕方でもありうる」ことを示されることには励ましがある。それは芸術や学問にも共通する普遍的な励ましだ。義非高校の卒業生たちが悩みを解消し証書を受け取ることができたのも頷ける。

漫談のキテレツな世界に笑うとき、聴き手は同じようにキテレツなこの現実を笑っている。「こうでもありえた」仮想現実を笑いながら、「なぜかこうである」目の前の現実を笑っている。街裏ぴんくの漫談がつくるいびつな「現実」も、「この現実」も、同じだけのバカバカしさがある。漫談からそのことを知り、またそのどちらをも笑い飛ばせることを知る。

義非高校の卒業生に、ぴんくさんが最後に言った。「何も心配せず進め」


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