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「今、ここ」にある時間

みほです。

昨日はあるコミュニティの
朗読会に参加して
「赤毛のアン」を朗読した

わたし、「赤毛のアン」って
実は読んだことなくて。
(ほんとは高校の授業で
 英語版は読んだはずなんだけど
 英語が分からなさ過ぎて
 全く記憶にないw)

※わたしの高校時代の英語力は
職員室に呼び出される程度←
ついでに数学のテストの最低点は
200点満点中6点です←←
(むしろどうやって取った6点)

閑話休題

赤毛のアンが
好きだったわけでもなく
朗読や演技に
興味があるわけでもない

だけどわたしが朗読会に
参加したのは

主宰の方の魅力はもちろん
事前に知った参加者さんたちの朗読が
聞きたーい!となったりなんだけど

一番は
普段ひとりで
なかなか改まって
作ろうとできない

「今、ここ」の時間


を持ちたくて。

GWで時間があっても
ひとりで長く時間を過ごしていても

今ここ

の時間って
なかなか作れない
作ろうとしない

体をゆるめて
心をゆるめて
呼吸を深くして
今ここに集中する

意識すれば
5分でも10分でも
作れるはずなのに

なかなかどうして

「あれやらなきゃ」
「これ気になる」
「LINE返信しなきゃ」
「漫画読も」

と言い訳ばかり

でも
その時間をとると
自分の心と体が
リラックスして
休まって
喜ぶのを
確かに感じて

だから無理やりにでも
その時間を作ろうと
「アンを感じて」読む朗読会なら
その時間を持てるだろうと
朗読会に参加した

天真爛漫なアンと
友人のお子さんを重ねてみたり
それを自分にも乗っけてみたり

すると
変に歪めてしまったり
抑えたりしていない
ふにゃふにゃの感情が
ゆるんで素直に出てきて

だからかな
朗読会が終わったあと
ふと思いたった勢いで
親に電話をした

特に話すことはなくても
声が聞きたかったんだと思う

心が静まっているから
自分の心の動きが
よく見えて

「傷つけてはいけない」
「心配をかけてはいけない」
「甘えてはいけない」
「迷惑をかけたくない」

と気をつかう自分と

「傷つけても愛されたい」
「心配されたい」
「甘えたい」
「迷惑をかけても愛されたい」

と願っている自分がいて

でもどっちの自分も
話せて安心して
安らいで


「どんなことをしても
 親には愛されている」
と言いきった友人が
羨ましかった

帰省して
うまく甘えて帰っていく
弟が羨ましかった


わたしはどこかで
あんなに守られて生きてきたのに
親を「守ってあげなきゃ」
と思って心配しようとしている
親を弱い存在にしようとしている

そうすれば
もし愛されてなくても
もしわたしが迷惑でも
甘え下手でも
正当化できる気がして

でも、もし親が強くて
何の心配もいらない存在だったら・・・?


そんな風に思いながら一方で
親に「老後は自分たちで何とかするから」
って言われるとちょっと寂しくて。


ちょっとまだこんがらがってるけど
これはたぶんあれですね

わたしはわたしを
「迷惑な存在」だと思ってて

親はわたしが生まれたときから
変わらずわたしを愛してくれていて
わたしがそれを受け取り損ねてる

取りこぼし←
を減らすには

わたしが「わたしを」信頼できるか
「わたしが」親を信頼できるか

まだ違うけど、
近づいてきた気がする。

近づいたけど
遠ざかってる気もする。

変にこねくりまわしてる
だけな気もする。
体は動かしてても
心が暇なんだな、きっと。笑

でも、それでもいいや。
またいつもと違った感情を
味わえた


えっとなんだっけ、そう。
「今ここ」の時間。
時にはいただいた機会に乗っかって
(もはやそればっかり汗)
心静かに自分と向き合う時間を
大事にしていきたいなと思う。



みほ




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