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鋼のメンタルの持ち主が、それにつながっているかもしれない後天的要素について考えてみた

自他ともに認める、「鋼のメンタル」の持ち主である。

10代の頃はむしろ、ガラス細工のような繊細なハートの持ち主だと思っていた。とんでもない誤りだった。

20代の頃、もしかしてメンタルが大分丈夫かもしれない、と気づきはじめた。

今はもう自覚があるし、他者からもはっきり言われることが多い。

ストレスフリーな人だよね、と。


厳密には、心は「硬い」よりも「しなやか」である方が良いとされている。
困難を前にへこたれてもいいし、しなびてしまってもいい。大事なのは回復力(レジリエンス)である。

「鋼のメンタル」という字面は強い心を端的に表していて、とてもいい。だから自分もよく使う。

だが、一方で他者の感情をないがしろにし、心の機微に気づかない人、という印象もあわせ持っているように思う。

ここで言う、強メンタルは決してそのような鈍感な感性のことではない。

健康的な心、強い心をより正確に表現するなら「柳の枝のようなメンタル」が近い。
……なにやら、途端にやさしげではかない印象になるな。うん、字面がよろしくない。

やはり以降は、柔らかくもしなやかな強い心のことを「鋼のメンタル」と形容することにする。

ここで書きたいのは、「自分はこの方法で鋼のメンタルを手に入れました。みんなも是非に」などということではない。

結論から書くと、鋼のメンタルは自分で手に入れるものでなく、生まれ・育ちなどの外部環境要因に、生来の気質、資質、それに少しの経験などの後天的要素が加わって醸成されるものである。教科書的にもそうだし、自身をあてはめてみても実感をもってそうだろうと思う。

つまり、身も蓋もない話であるが、自分の力だけでは手に入れることができないのが「鋼のメンタル」である。

なので、逆説的に、

打たれ弱かったり、困難を恐れて目を背けたくなるのはあなたのせいではない

人を否定的に捉えてしまうのも、あなたのせいではない

ということを言いたくてこれを書いている。

そこをスタート地点にすると少し気が楽にならないだろうか。

そのうえで、強メンタルの醸成に寄与しているかもしれない、少しの「後天的要素」について掘り下げて書いてみたい。

外部環境や背景は操作できないが、後天的要素は活用してもらえる可能性があるからだ。

社会が不安定になり、先行きが明るく感じられる要素も少ない。
余裕がなくなればどうしても、他者への思いやりや気遣いも失われるだろう。こんな殺伐とした雰囲気では、メンタル不調を覚える人が多いのも無理がないと思う。

少しでも誰かの、何かの役に立つと嬉しい。



鋼のメンタルに関わっているかもしれない、物の見方とスタンス


冒頭でも触れたが、大切な前提なので繰り返しておく。

鋼のメンタルには、マクロには生まれ育った国、時代背景や文化的背景、ミクロには家庭環境、本人の気質など、個人に選択権のない事柄も少なからず影響している。ただ、それらについてあれこれ言っても実際的でないので、ここでは割愛する。

それらの点に着目することは、残念ながら非建設的である。
ただ、それを不毛であると割り切れないのが人心であるとも思う。
だから、考えないようにしたいのに、悔しくて割り切れない──それも、やっぱりいいのだ。


物事を加点方式で見る

私たちは無意識に「減点方式」で人やものを見ていることが多いかと思う。旧来の教育のせいかもしれない。

上司の部下の、同僚の至らない部分を愚痴る。

親の、配偶者の、子どもの出来てない部分に着目してため息をつく──。

劣等感はその最たるものではないだろうか。
ひとと自分を比べて、自分の減点すべき点を見つけて落ち込む。

人も物も、「減点方式」で見ると、どうしても世知辛い。
「加点方式」で見ると、同じ世界が少しやさしく見えているのかもしれない。

減点方式で物事を見る人は、真面目な人なのだろう。

その真面目さは清く美しい。
だけどどんな素晴らしい要素も使い方によっては自分を苦しめる。

わたしはちょっとでも楽をして生きたいものぐさだし、人として外郭を保つのすらしんどいスライムなので、朝布団から起き上がれただけで、盛大に自分を褒めている。

人と話すときは、気持ち良く時間を過ごしたいので、相づちのようにして「素敵だな」と思うところを褒める。

かわいい
いいね!
すごい

この辺りは口癖である。

おべっかではないし、人に好かれようと思ってはいない。
人の感情は人のものなので操作しようとは思わない。相手が自分にどのような思いを抱くも自由だと思っている。その結果、好かれたら嬉しい。嫌われたら悲しいけれど、仕方ない。だって、こんなに人がいるんだから万人に好かれるなど無理だ。だけど、悲しいことは悲しい。1日くらいはしおしおしている。

ただ、加点方式で関わるとカジュアルな誉め言葉は自然と口をついて出やすい。人は、自分にない素敵なところや、すごいところをいっぱいもっている。

分野を横断し、節操なくスキやフォローを押しているが、それも「すごい。文章うまいな」「この考え方は素敵」「いやー素敵な感性だわ」などと感じ入った結果である。



背景も含めて人を尊重し、自分を卑下することもしない

自分が形づくられるまでには、さまざまな経験があり、思いがある。その中には冒頭で触れたように、選択不可能な事柄や要素も含まれている。

自分がそうなのだから、相手もまた当然にそうである。

自分にとって信じがたい言動をする人間にも、それなりの背景と哲学と正義がある。共感や理解に達しないのは、それらの違いが大きいからだろう。

その違いに思いを馳せると、「自分とは違う人なのだな」とただ静かにそう思うだけだ。

正しさや優劣の判断を交えず、事実をそのまま認識する。

そこがスタート地点になっているせいか、あまり人付き合いを苦に感じたことがない。



自分の相対的価値を低く設定しておく

前にちょっと触れたことがあるが、もう少し掘り下げたい。
現代社会だと他者評価されやすい三大項目には以下のようなものがあるかと思う。若い人だと、「稼ぐ」が「学歴」になっているかもしれない。

どれだけ稼いでるか、稼げそうか
社会的地位がどのくらいか
見た目のレベルがどのくらいか

細かいことを書くと、配偶者や子どもの有無とか、モテるかどうかとか、人脈の広さとか、界隈でどのくらい影響力があるかとか、友達が多いかどうかとか、持ち家かどうかとか、所有している車が何かとかいろいろあるかもしれない。

その自己評価を低めに設定して社会生活に臨むと、苦しみは少ないように思う。

自分は1000万くらいは稼げると思っている人が、実際500万しか稼げないと悔しいだろうし、苦しいだろう。

自分は選ぶ立場で、それなりの人と結婚するはずだ、と思っている人がいい年になっても未婚だと辛いだろう。

自分は容貌においては中の上ぐらいだと思っている人が、「ブサイク」と言われれば憤慨するだろう。

でも、自分が自分に課す期待値が小さければ、それ以上の結果が返ってくれば嬉しいだろうし、相応ならば「まあ、こんなもんか」と思う程度ではないだろうか。

このときのポイントはあくまでも「相対的な価値」に限定して低く設定することである。そういった社会的観点の価値と人間の真の価値は必ずしも一致しない。

社会的に価値が低いからといって、その人が絶対的に価値がないかというと別問題である。


稼ぎや地位など相対的な価値を貪欲に追及するのは、自分はどうも性に合わなかった。かといって、社会から距離を置いて世捨て人のように生きるのも現実ではなかなか難しい。

その結果、たどり着いたスタンスがこれである。

ベースラインが低い分、結果がそれを上回ることが多いせいかわりと心地よく生きているし、みんな優しく接してくれてありがたいな、と思う。



以上、鋼のメンタルに関わっているかもしれない後天的要素……認知と態度について考えてみた。

書いて思ったが、結局自分は鋼のメンタルに関与する、環境要素をもともと持っているのでこんな悠長なことを考えるのかもしれないとも、思える。

自分は豊かで平和な時代に、安定した家庭環境で尊重されてぬくぬくと育っている。

幼少期はもちろん、青年期を経て大人になり、中年に至るまでずっと、家族にもそれ以外にもわりとポジティブな感情を向けてもらえることが多い。

ネットではいいあんばいに空気になるが、結局主軸をリアルに置いて生きているせいか、あんまり気にならない。

そんな自分がこんなことを考えること自体、傲慢のようにも思えなくもない。

……難しいね。


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