汚泥を掬う

徹夜のダーツバーから早朝のカラオケを経て、通勤ラッシュも山を超えたかという8時過ぎ、いつもと逆の帰路につく。

君の名はのラストみたいに並行してホームへ入っていく通勤電車を見てふと嫌に滑稽な感じを受けた。

それは、ああ、俺もああなのだと、鏡を見たらきっとああだろうなという絵面だと気付いてしまったからで。

今しがた線路の節を通ったときのガタンとした揺れがもっと大きかったら、簡単に横転してしまうんだろうな。それはあっちの電車かもしれないしこっちの電車かもしれないな。ムスカはきっとこんな気持で言ったのだろうな。確かに人はゴミのように見える。それはきっと向こうから見る自分もまたそうなんだろう。

一様にそうなんだろう。

けれどもしも脱線してしまった電車の沢山のけが人の中に芸能人やら著名人がぽつりと乗っていたとしたら、他の大多数をよそにそいつのことだけ大スクープにして大騒ぎするんだろうな。それが良いか悪いかに興味はない。書きたい奴が書くだけだ。諸行無常という感じだ。

問題は、人間は自分が思っている通りの質量を持っているわけではないということ。殆ど大概、それは思っているよりもずっと軽い。それが自分自身の重さなら、乖離は更に酷くなる。人はそのギャップを埋めたくて、嘘でも認めてほしくて、誰かに縋るのかもしれない。そんなことを朝8時過ぎの電車の中で思わなくてはならない自分を思うと少し不憫になる。

ああ、電車に大半を占める目の死んだサラリーマンはともかく、どうしてそんな髪型になったのかと問い質したくなるようなオバさんとか、着れればいいみたいなボロボロのお爺さんがいるんだ。でも分からないでもない。お世辞でも生まれ持ったものに恵まれているとは言えない印象を受けるから。そんなのがザラにいる。ごまんといる。電車にぱんぱんになっている。

彼ら彼女らは、どうやって明日への希望を見出しているのだろうかと下世話ながら思ってしまう。それとも希望を見出すことすらせず、ただ流れる時間に身を委ねているだけなのだろうか。仮にそうだったとして、俺はその人にどんな言葉をかけることができるのか。いくら考えたとてそんな魔法みたいな言葉は持ち合わせていないような気がする。

電車から降りてしばらく行った家近くのローソンで、否応なく目についた雑誌のグラビア表紙。余りのコントラストの対比で目が焼き付きそうになった。理不尽極まりない。

こんなナーバスなのは、寝不足な上まだ酒が残っているせいだと思いたい。でも残念ながら、見て見ぬ振りをするかどうかくらいの違いしかないのだ。だって存在している。きっと人生に妥協している持たざる者達が。小学生だか中学生の頃、授業参観の時に後ろに並ぶ親御さんたちを見て不思議に思ったことを思い出す。

「どうしてもっと配偶者を選ばなかったのだ?高みの人に相応しい自分になろうと努力しなかったのか?なぜ妥協したのか?」

今になって分かる。それは決して間違ったことではないこと。結婚相手というのは自分というパーソナルな枠に近しい中から、人生の限られた時間の中で選びぬかなければならないこと。そして、何度も間違えられるほど人生は長くはなく、間違っているとわかっていても進まなくてはならない事情があったりすること。

彼らはきっと、何度も汚泥を掬ったのだろう。そしていつの間にか幾ばくかの砂金を受け取ったのだ。それは他人と比較すれば些末な量かもしれないが、間違いなく自らの手のひらで煌めくものだ。

砂金に行き着く為に汚泥を掬おうとした訳ではない。鬱屈とした朝の気分、大都市に小さく燻らす己のちっぽけさを嘆こうとしただけだった。

しかし今は少しだけ輝く砂が見える。砂金とまではいかなくとも、これを綺麗事と呼んで気休めにしよう。

おやすみなさい。

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