アペイロフォビアという名の病

apeirophobia 【名】- 無限への恐怖症

最近、意識を「無意識にすることに集中」しないと寝られない日が増えた。

要は頭の中がごちゃごちゃしてしまっているということなのだけど、そこを敢えて整理してみると、僕はどうやら色々な物に対する恐怖に囚われてしまっているみたいだ。

とはいえ僕もいい歳になってきたので、恐怖の対象はさほど多くない。

よく、早とちりした人が「人間より怖いものなんてない」なんて言うけれど、人間なんてのは僕に言わせれば何も怖くない。どんなサイコパスや殺人鬼であっても、いきなり空を飛んだり炎を吐いたりしないだろう。せいぜいその肢体と頭脳で出来る範囲のことをするだけだ。

勿論、寝る前の暗がりでお化けが出そうだとか、なんか嫌な感じがするなんてこともない。寧ろ暗闇は周りの目が少ない感じがして好きだ。目を凝らさなくていいから好き。さすがに廃墟とかは御免被るけど、平気な方だとは思う。

では一体、何が怖いと言うのか。

言ってしまうと、小説と、ワンピースと、宇宙が怖い。

え、急に何。宇宙恐怖症はまだ聞いたことあるけど、小説と、ワンピースて。いやごめん、何言ってるか分からないと思うけど、ちゃんと説明する。上手く説明する自信はないんだけど。

まずこれらには共通点がある。それは精神しかり物理しかり深淵な世界があるということ。つまり、入り込もうとすればいくらでも入り込めてしまうということ。ワンピースに関して言うと、作品の特徴として「細部まで計算された伏線に次ぐ伏線」があるけど、怖さポイントで言うとそういう伏線をすべて生み出している「尾田栄一郎の脳内」に思いを馳せる時に恐怖を感じる。つまり細かいこと言うと、怖いのはワンピースではなく尾田栄一郎の脳内。

ちなみに、僕は読書好きなので、小説も好きだし、ワンピースも好きで読んでいる。しかし小説でいうと、読み始める前に心理的なハードルがある。活字は好きなので、文章読むのが辛いとかではない。

僕に言わせると小説を読むというのは、架空の人間の人生を追体験することだ。主人公は僕ではなく、その所作、考えは僕の人格から生まれたものではない。けれど追体験出来てしまう。映画にしろ、漫画にしろ、それが面白さというものだろう。個人的には、その没入感の最たる例が小説だ。

けれどこれがきっと僕の悪い癖なのだろうが、そこが恐怖に変換されてしまう。これを読んでいる人は「僕」ではないので、さっき挙げた「小説」「ワンピース」まではなんとか関連付け出来ても、おそらくはそこから突然「宇宙」には繋がらないだろう。でも繋げてしまうことで恐怖が生まれてしまう。

恐怖ポイントはこうだ。小説は自分の人格で作られたものではない。故に、小説を読んでいる間、人格は小説の主人公に成り代わる。自分の人格は一旦隅に放り出されることになる。小説を読み終わるまで、もしくは読み終わっても暫くは放り出されたままだ。暫くして意識は漸く「自分の人格」に戻る。ただ、一つ変えられない事実がそこに残る。終ぞまで追体験した人生は全く架空のもので、僕自身は出かけたわけでもないし、誰かと会話したわけでもない。自室で本を読んでいただけだ。

まずここで、「自分自身が何かを成し遂げたのでは無かった」と軽く失望する。そして次に、深く深く一冊の本に没入したことで得た想いを、誰かと完全に共有することが叶わないということで失望する。更に、こんな小説のように、一冊一冊の本の中身がまるで違うみたいに、誰かと誰かの人生には確かな溝があって、けして簡単に分かり合えるものではないということに絶望する。

とはいえ人間が分かり合えない事実それ自体は、今更嘆くようなことではない。そうやって宇宙に思いを馳せる時、ひとつの絶対的な事実に集束する。それが僕にとって一番の絶望であり、深層意識に巣食う暗闇だ。自分が一生の内に体験出来る部分とは、どう足掻こうと塵のように薄っぺらい上澄み部分でしかないという事実だ。極端を言えば、蟻の自由研究をトコトンやろうと志ざせばそれだけで一つの人生が終わることもあるだろう。ひと度ミクロへの追求を始めれば一見シンプルな物事は一転して網目の様に際限ない深淵な世界となる。研究者冥利に尽きると言う人もあるかもしれないが、僕はそれを恐怖と呼ばずに何と呼ぶのだろうと思ってしまうのだ。

僕の今の悩みというのは、言ってしまえば全てがその事実に集束する。みんなの悩みも実はそうなのかもしれない。ざっと寿命100年とした時、一体どれだけのことを成し遂げられるだろう。何を伝えられるだろう。どんなペース配分で生きるのが一番良いだろう。全力でやったとして、何かを後世に残す時間は残されているか。

例えばプログラミングの話でもそう。芸術を磨くでもそう。ピアノを弾くことでもそう。何かに没頭しようとすれば、相対的に何かを疎かにしていることへの凄まじい恐怖が肩を叩く。

この問題への根本的な解決には、それこそ脳にマイクロチップか何か埋め込んで集合意識にアクセスする手段を得るか、超寿命を得るか、いっそ全て諦めるくらいの選択肢しかない。だって「自分は一部でしかない」恐怖の根源はきっと、「この世の全てを知りたい」という本能によるものなのだから。

そうは言ったとて待てど暮らせど変わらない現実の中で生きていかねばならない。蟻の研究を恐怖と言ったが、誤解無きよう、僕は汎ゆる分野の第一人者やエキスパート、それに追随する人達全員を人類の誇りだと信じている。ただ、確かに存在する「意識の垣根」を壊すことが出来なければ、多くの人が「孤独死」するものだとも思っている。伝えられることがあったはずの人が、伝えられずに死んでいくからだ。けして愚かだという意味ではなく、愚かでない人であってもそうやって人生を終えてしまうことへの恐怖なのだ。

この恐怖に相対する時、「いっそ明日が来なければ楽になれるのに」と考えが過ってしまう事が無い事もない。そういう時は、「ただ出来ることをやろう」なんて安直な考えに纏め、思考を止めることに努める。

マクロに思いを馳せる時、ミクロである自分という存在がどうしようもなく惨めでつまらなくてしょうがなくなる。実際つまらないだろう。与えられたのは僅かな時間、それから申し訳程度の頭脳と肉体。誰かと比べてどうという話ではない。これで何か大業を成し遂げる方がおかしいというものだ。だが頭で分かっていても、精神的な絶望は圧倒的な大波となって押し寄せる。意を決して何処かに飛び込まなければならない。そうなればもう、この大波に相対しない大勢の人と心を通わすことは叶わない。悲しいかな、通わせたいと思えない以前に、通うことがないからだ。そういう境地に行かなければいけない。何故なら、「行きたくない」と思っても行かなければいけないと固辞する程に、心底では「行きたい」と望んでいるからだ。

ただ手段が無い事もない。恐怖に打ち克つには一人で無くなる。誰かと居ること、何かを共有することで、幾許か心持ちが良くなる。いつか枕元にまで現れるほどに信頼出来る仲間に出逢うしかない。そういう道を行くしかない。出来るだろうか?分からない。今までの道だって正しいか分からない。進むしかない。進むしかない。明日の朝目覚めたらこんな気持をとうに忘れて、信念に沿わないことをしてたらどうしよう。自分じゃなかったらどうしよう。マクロではさほど問題にはならないことが、自分にとっては問題なのだ。それくらい些末な自分という存在が、自分自身を苦しめるというのに呪縛から逃れられない。

悩みたいから悩んでいるのだろうとふと思う。悩みたくないと望んで生まれていたら、或いは生きていたら、こんな面倒くさい生き方はしなかっただろうし、今からでもやり直せるのだから。幸いなことに中々眠れないと言いつつ不眠症とまではいかない絶妙なラインで留まれている。心の何処かでは不幸な生き方だと思いながら、精神的には追い詰められながらも、そうやって生きていくことを強いている。でもたまには「安心しなよ」なんて気休めを言われながら眠りに就きたいなんて甘えたことを言ってみたり。

兎にも角にも、今の気持ちを真面目に伝えようとすれば、こんな3000文字を優に超える長文になってしまうのだ。

僕の言いたい絶望っていうのはつまるところ、そういうことなのかもしれないですね。

読んでくれてうれしいです。