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『太平記』は正成×正季&正季×正成なのです!

今日のボタニカルレッスンなのです。

138 正成兄弟討死事
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

太平記/巻第十六 - Wikisource

「気色」は多義的なのです。

き-しょく 【気色】
①顔色。表情。機嫌。
出典平家物語 三・足摺
「入道相国(しやうこく)のきしょくをもうかがうて、迎へに人を奉らん」
[訳] 入道相国(=平清盛)の機嫌をうかがってから、迎えに人を差し上げよう。

気色の意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典

け-しき 【気色】
①(自然の)ようす。模様。
出典枕草子 正月一日は
「正月(むつき)一日は、まいて空のけしきもうらうらと」
[訳] 正月一日は、一段と空のようすもうららかで。

「けしき」は「道理」なのです。

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