朗らかな青色

 私は毎日食べる味噌汁の味がどれも全く異なるもののように感じるようになってしまった。

 以前はそんなことはなかった。毎日食べる味噌汁はいつも同じだった、少なくとも同じだと感じる程度には。けれども、1ヶ月前に映る景色に感じたことがない違和感を感じ、病院に行き、全身性知覚過敏症候群/Systematic Hypersensibility Syndrome/SHS病、通称知覚過敏症と診断されて以降、徐々に全ての感覚がおかしくなり始めた。どうやら全身の感覚を担う細胞の数を抑制する機能が壊れ、異常に細胞の数が増殖する病気らしい。医師には、胎児の頃にのみ活発なはずの活動が今になってもう一度起こる異常だと言われただが、正直何を言っているのかよくわからなかった。そして、その違和感は急激に全身に広がり、残念ながら現在のところ治療法もなく、最終的に俗に言う廃人になってしまうそうだ。医師は遠回しに、しかしある種の医師特有の明確さを持ってそのように私に告げた。

 まず最初に影響が出ているのは視覚だった。病院に行った翌々日には、家の間接照明から発せられる単なる光であったはずのものがとても細かな光の粒の集合体に見え、蛇口をひねって出てくる水の1粒1粒がとても個性的な運動をしているように見えた。次に影響が出たのは聴覚、その次に影響が出たのは嗅覚、その次に影響が出たのは味覚、最後に影響が出たのは触覚だった。

 聴覚に影響が出始めた頃には、勤めているIT系の会社に行けなくなった。嗅覚に影響が出始めた頃には、恋人と別れた。味覚に影響が出始めた頃には、外に全く出られなくなった。触覚に影響が出始めた頃には、俗に言う廃人だった。

 知覚過敏症と診断されて、指示された通りに手続きをこなすと、最低限生きていける程度の金銭が支給されるようになった。一人で暮らすということはなんとかできるようになったが、孤独には耐えられそうになかった。知覚過敏症と診断されてからの3ヶ月生存率が10%でその死因の大半が自殺であることにも納得がいった。私も首を括ろうと2回したが、そもそも首を括るための縄を首を括るために結んで設置するということが極めて困難であった。床には中途半端に結ぼうとした跡が見られる縄が転がっている。この過敏さにもある種の慣れがうまれた今なら自殺することができるのだろう。

 知覚過敏症のコミュニティも存在するようだが、私は入らなかった。入ったところで共有できる世界を有していないのにコミュニケーションを取ることが不可能なことは明らかだったからだ。

 ある種の慣れが生まれた後は一人で思考する時間だけがあった。知覚過敏症ではない人とコミュニケーションをする方法を考え、そして1つの暫定的な案が出た。感覚に関わる神経のほとんどを切断する手術を定期的に受け続けるならば、手術を受けて感覚がなくなった状態から異常に発達する状態に完全に移行するまでの間はある程度普通に暮らすことができ、それを繰り返せばやや困る生活になるのではないだろうか、といった案だ。医師にメールをすることにした。目を開いて画面を見ても文字は文字をなしてるようには見えず、キーボードに触れるたびにキーボードの凹凸が気になり、タイプ音1つ1つがノイズミュージックの作品のように聴こえた。なるべく短文にしたにも関わらずメールを打つのに5日かかり、医師からの返ってきたメールは私を配慮してか短かったにもかかわらず読むのに2日かかった。「無理。五感完全消失。」だが、その返答でむしろ五感をなくせるという希望が持てた。なぜそれを今まで医師は教えてくれなかったのかという怒りが湧いたが、そもそも知見が溜まっていずそういう発想も浮かばないのだろうとやや納得し、妙に落ち着いた。私は五感を完全になくすことにした。

 手術を受けるとなると、もう私の世界から言葉以外はなくなるだろう。そう考えると最後にどうしても好きだった海を感じたくなり、綿密な計画を立て、海に行った。海はもはや海ではなかった。けれども、この海の色を朗らかな青色だと思うことにした。

 

 

 

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