「高齢者」の有用性は「いざという時」の鑑であるべき。

                               36日前

「高齢者」の有用性は「いざという時」の鑑であるべき。〜この国の「高齢者」議員は普段役に立たないが、いざという時にも役に立たない。


新型コロナウイルスのような、人類が経験したことのない未曾有の危機が訪れた時に、敢然と立ち向かうのが高齢者の仕事である。
つまり、この国の場合安倍首相ではなく、麻生氏や二階氏がその役割を担うべきなのである。麻生氏は国民に対して、「私たちが盾となって、国民の生命と安全を守り抜く。」
そして、高齢者の代表として、政治家長老として、「私たち高齢者は若者や未来の子供たちのための轍(わだち)に徹するべき」と訴えなければならなかった。
その上で国民に対して決死の覚悟を問うべきだったのである。

そもそも、安倍首相や橋下氏のような戦争や貧困体験もない「ガリ勉」のような経験則のない人間が、リーダーぶっても底が知れている。つまり、人間がほんとうに正しいことができるのは、自らの命の区切りが見えた時しかない。若者や現役世代の人間には
家族や子供など守らなければならないものがある。当然自分自身の未来もある。だが、
高齢者は60年も生きれれば丸儲けである。あとは国のため、社会のため、誰かのために命を懸けて尽くすべきなのである。

この未知のウイルスとの戦いは、裁判や法廷闘争ではない。人類の存亡をかけたウイルスとの戦争であり、人間がどうあるべきかが問われる神事であるとも言える。たかが一国の総理や弁護士の分際があれこれできる問題のフェーズではない。


伝統的社会においては、たいてい「高齢者」がリーダーであり 政治や医療、 宗教や、 歌と踊りに関する知識を 最も豊富に持っている。現代社会では情報源といえば 本やインターネットだ。 対照的に文字を持たない伝統的社会では「高齢者」が情報を蓄積している。そして社会全体の存続は彼らの知識にかかっているのだ。長く生きた人しか 経験したことがないようなまれな事態によって 社会に危機が訪れる時である。

伝統的社会ではこういった場面で「高齢者」が役に立つ。伝統的社会は 私達の生活に比べて 物質的には貧しくても 社会的にはずっと豊かだ。 彼らの子供は 私達の子供よりも 自信にあふれ 独立心が強く 高い社会的スキルを備えている。
「高齢者」は正々堂々、寛大、健気、儀礼的など、人としての道理に従う文字通りに人間の手本と言うくらいに立派な性格や思考の持った人間のことを指すのである。

かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、無条件に敬われる存在というよりも、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていた。老人が存在することには意義があったし、「高齢者」には掛け替えのないvalueがあった。だが、それらは現代社会においてはすっかり失われつつある。希少にして代え難いvalueを持った存在としての「高齢者」は失われてしまい、今ではvalueを見出されず、お荷物扱いされがちな「老人」が巷に溢れかえっている。


若い世代は仕事の夢や恋愛や結婚、素晴らしい家庭の形象などやることがいっぱいだ。「高齢者」の役割は若い世代の「生産」、つまり、科学・技術や経済活動に集中をサポートし、「政治」などに興味を持たなくてもいい理想の社会の構築を目指すべきである。そして、「高齢者」その「政治」活動においては「紙幣」を目的とすることなどあってはならない。つまり、本来の「政治」とはボランタリーで行うべき「芸術」なのである。

「芸術的」な高齢者とは、とても日本を愛している人間で、今でも様々な活動を通して利己を捨て日本のために尽力している。日本の文化や歴史、政治や経済にも明るく、何よりこれからの日本のことを真剣に考えている。これからの日本の事を考えているということは、若い人達がこれから生きる時代をより良いものにしてあげたいと願っているということなのである。そんな「高齢者」は若者からも当然尊敬される。

そういう意味では、この国の「高齢者」議員は、押し並べて全て「くず」である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?