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誰がために鐘は鳴る

「人の胸を打つとはどういうことか」

と最近ちょくちょく考えている。
音楽、演劇、スポーツ、物語等々、人の心に訴えかけるコンテンツには様々なものがある。
そういった作品を評価する上で、単純な品質のよしあしを超越した何かがあると思う。
出逢ったその人のその後の生き方を左右してしまうような劇的な何か。

どんなに技術が発達しようと機械で量産した小綺麗なおにぎりより、不格好でも人の手で握られたおにぎりの温もりが人の心を救ったりもする。
どんなに音程がとれていても、心無い歌い手が歌っても人は耳を貸さない。荒削りでも届け!と精一杯歌う姿に人は目を耳を奪われる。

では、なぜこのようなことが起こるのか?

それは、人の心がそのものに触れているときにだけ発生するものではないからである。
出逢うまでの人生、そこで感じてきた心情、辛かったこと、哀しかったこと。それらがその人の心を心たらしめている。つまり、

人の心は必要なときだけ必要な分だけ取り出して食べられる冷凍食品ではない。あなたが常においしいと感じるように味付けされたレトルト食品ではないのだ。

そのものに触れたときの心情は供給する側が限定するものではないし、されるべきではない。
味気ない食事、無味乾燥な生活を送っている人にとって愛情が込められたおにぎりの温もりにどれだけ心救われるか。自分の夢を追っている人ががむしゃらに一所懸命に歌う姿に自分を重ねる。

人の胸を打つということは、どちらか片方が身勝手に打ち鳴らすことではない、双方の心の共鳴が感動の本質なのではないだろうか。

本来他人の心とは喩えるなら未開の惑星の産物であり、果たして口にしても毒にならないか、そもそも触れても問題ないか深慮が必要な代物なのだ。
都合のよいものに感じるのは見る側が自分の理想を投影してるだけにすぎない。

他者から見た都合のいい偶像を抱くこと、またはそれを強要することは、それだけで受け手の心は凪いでしまう。

よく「花は散るからこそ美しい」と言うが、そんなもの花にとっては甚だ心外な話である。

花は散るために咲くわけではない。

美しいと誉められるだけのために地中から機会を伺い、芽を出し、葉を広げるわけではないと思う。他者の決めた美しさという価値観に、花は勝手に値打ちをつけられる。花はただ花でありたいだけなのに。

自分が枝葉を伸ばすための好機をうかがい諦めずじっと耐える姿も美しい。

日が射す方へ、目指す先へ一心不乱に茎や葉を伸ばすことも美しい。

花が枯れても葉がしおれても次代に種を残すことも美しい。

花弁だけを見て、人間にとって都合のいい部分だけ切り取って美しいといい、枯れて散ってしまえば価値がないなどと言うのは花にとっては身勝手極まりない話である。
 

どの姿も花にとっては「自分であること」には変わりはないのに、花を咲かせるため葉を伸ばすため目に見えない地中で根を張りもがいていることには誰も目を向けない。

それが本来一番大切なことのはずなのに。
根を張り水分や養分を吸い上げなければ花は咲かないし、しっかり根付いていなければ強い風に煽られて倒れてしまう。

花が開くのはその結果論でしかないのに、花が開くことが全て、散ってしまえば終わりというのは他者が勝手に決めているだけだろう。他者の求める勝手な価値観に、自分の存在を軽んじられてると花は思うだろう。

人を理解するということは、こういった過程にも目を向けなければならない。人前にでる部分、誰もが視認すれば判ることを全てと思ってしまってはいつかは歪みが生まれるもの。
結局は想像でしかないものも、想像しないと思いやることなど出来ないものだ。

それでも、だ。

それでも花は花として、種となり種として地に落ちた瞬間、自分の運命からは逃れられない。誰しも根深く心を掬ってくれる訳ではない。道端に咲く名もなき花に目を留めてくれるわけではない。

だが、花はそこで花を咲かせることを諦めていいのだろうか?

どんなに辛い状況でも、根を張り芽を出すことは諦めてはならない。その種も周囲の環境が整わなければ芽を出すことができないからだ。それは勝手に整うわけではないということを忘れてはいけない。土を耕し、水をくれる人がいることを忘れてはいけない。忘れては意味がない。

自分の花としての価値の創出を、時代や世間に丸投げすることはナンセンスだ。

誰も見てくれない?そのために枝葉を伸ばす努力をしたのか?努力をしても花開く保証などない?願いが叶うまで努力して努力は初めて価値を生み出すのだろう。

自分のつまらないプライドより、その場しのぎの面子より大切なものがあるはずだ。それが自分が生きる価値となるのではないだろうか。

逆に考えてみれば、人に美しいと評価されるためには人目に触れない部分で努力することが必要と言うことだ。ただ周りは花弁しか見てくれないもの。それでも自分は自分だと、どんな姿でも自分の存在証明だと思える心がなければどこかで糸が切れてしまう。自分がどんな色の花を咲かせるのかさえわからぬまま事切れてしまう。
花を咲かせることだけ、誰が見ても評価できることにだけ固執していては絶対に美しい花は咲かないのだ。

己の価値は与えられるものではない、培うものなのだから。花であることから目を逸らさず、人目に触れなくても自分の理想から逃げないからこそ、最後に花は開き「美しい」と評されるのである。

花は散るからこそ美しいのではない。花は花であることが美しいのである。

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