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I My 模湖

うちには一匹の猫がいる。全身がほぼ黒で、顎からお腹にかけて白い模様、足は白足袋を履いているようで、それを見る度

白足袋を履いた猫は幸運を運んでくれるんだよ、だから大切にしないと罰が当たるよ

そう母が言っていたのを思い出していた。

もう年は10歳を越え、人間に換算すれば年金をもらえる年齢はゆうに越えているはずだ。
頭が良く、気が利いて、距離感を伺う子ではあるがそのくせ寂しがり屋で甘えん坊。私が家に帰ってくると待ちかまえていたかのように出迎えてくれ、私がスマホをいじってなかなか玄関をあがらずにいると「どうしたの?」とでも言葉を発しそうな顔で様子を見に来て、それがたまらなく愛おしかった。

この子が生きてるうちは頑張ろうかな、この子は一人にしたらきっと寂しがるから

一時期そう漠然と考えていた、それだけが生きる意義のように思え、それだけが自分が生きることを赦されるただひとつの理由と思えてならなかった。
ただ息を吸って吐いて、食事をして床につく。そういう生活を送るうちに、何年も時間が過ぎていた。

若いときは腕をつかめば筋肉がありありと判り、それがいまは骨格がはっきりわかるほどになってしまっていた。

長生きしてくれよ?

特に病気もなく、老猫にしては子猫のような顔つきをしているその子を見つめると、心配そうに見返してくる。
よく、猫は人に懐かないから嫌いだ、という人もいるが、

それは、「あなたに」懐いてないだけだっての

そう心の中で吐き捨てていた。
そう自然に思えるほどに心が通じ合っている気がしたのだ。

その子のために生きている自分は、その子がいるからこそ存在している自分は自分だけで成り立っているわけではない。

自分の意にそぐわないものを排斥し、遠ざけることは自分を生かしてくれる存在から目をそらすことに他ならない。自分の一部であるはずのものを遠ざけるから辛くなる。
自分を取り囲む環境も、自分の心を形成し自分たらしめてくれるもののはずなのに。

そう、気づかせてくれた人がいる。いいことも悪いこともそれをひっくるめて人生なのだと、それが生きることなのだと。自分の中に足らなかった1ピースが見つかった気がした。

そっか、俺は生きたかったんだ

飼い猫に長生きしろよ、という言葉はそのまま自分の願望にほかならなかった。

なんだ、俺は最初から本当は自分の本心をわかっていたんじゃないか、と気付いたとき、視界が開けた気がした。血液が全身を巡っているのを感じる。

本当は、とうの昔に答えなど出ていたんじゃないか!

それは水面を見ているだけでは分からない、深い深い湖の底から湧き水がわきあがるように私を満たしていたのだ。
最初からなんのきっかけもなく存在している湖などない、湧いてくるもの、流れ入ってくるもの、それらを受け入れるから湖は存在している。

生きることは、生きていくということはただ呼吸をするだけではない、ただ眠りただ起きるだけではない。
自分のことが自分のことを一番わかっているはずなのに、自分のことがなによりわからなくなるときがある。
生きるということは、生きていくということは、人生とは、悲しみや怒り、虚しささえ受け入れ、それすら自分の一部であると知り、生かされていることを知り、死ぬために生きるのではない。

生きることは答え合わせではない。自分の人生が正解じゃなくていい、生きて、間違っていなかったと証を残すことが生きていく、ということなのだと私は思う。

白足袋を履いた猫は大切にしなきゃいけないよ

自分を生かしてくれる存在、希望を与えてくれる存在、そのために生きることをやめない、生きることを諦めてはいけない。この迷信は生きる希望を与えてくれる存在から逃げてはいけない、そのために踏ん張るから幸せになれるんだよ、という願いにも似た教訓なのかもしれない。

人は、死ぬために生きているのではない。人は幸せになるために生まれてきたのだから。

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