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続 心の風景 文学全集の行く末

 本棚に整然と並ぶ文学全集。長年の夢だった新築一戸建て。いつか落ち着いたら読み進めていこうと購入したのだろう。日本の著名な作家たちの代表作を収めた文学全集。装丁は地味だが、全集だ。決して安くは無かったはずだ。
そのサイズに合わせたのか、隙間なく収まる本棚。全部で何巻あったのか記憶は定かでないが、五十巻はあった。第一巻から順に並べられてガラス戸をぴしゃりと締め埃が被らないようにしてあった。 
 この全集を購入した父が本を読んでいる姿を見ることはめったになかった。父の死後、母が暇つぶしに全集をつまみ食いしてるのをたびたび見ることはあった。私はというとこの全集に触れることすらなかった。おそらく購入した日に父が並べて、人の手に触れられることなく数十年後に息子の私の手によって紐で縛られ廃品回収に出された。
 こういう光景は我が家だけのことではなさそうで、応接間と呼ばれる部屋の一面に立派な本棚がしつらえられ、豪華な装丁の施された文学全集が整然と並んでいる。或いは大百科事典全25巻とか豪華に飾られている家は多かった。そのほとんどが読まれることなく代替わりしたときに処分される運命。
 ついでに本棚の下のサイドボードには各種洋酒が全集のごとくに並んでいたりする。そうだ、我が家の居間(応接間はない)のサイドボード(仮)の棚にも各種洋酒が並んでいた。
 我が家を含め、どこの家の文学全集も、現実には部屋の装飾品として鎮座させられるだけのものだと言ってもいい。
 余程の読書家でも読まれる本に偏りがあるのは当然で、仮に手あたり次第に手に取った本のページをめくっても2,3ページ読めば作家の出す匂いというか文章から立つ匂いというか、そういうものを感じこの本は最後まで読むか、ここでやめるか、判断してしまう。あるいは本の装丁が醸し出す香気というものがあって読む前からその本を眺めることで感じるものである。自分の肌に合うかどうか、主観、偏見からなるものだ。
 本から湧き立つものがある。それが全集となるとまったく同じ装丁の本が何十冊もひとまとまりになって作家や作品ごとの出す臭いを感じられなかったり、逆に匂いがごちゃまぜになってしまう。電気を消して闇鍋の前に座らされて、食う前から腹がモタレたりするのと同じ。単行本は時間が経つと熟成されて香りが立つが、全集本は渇いて発する匂いがだんだんと弱まってくる。
 ところでサイドボードに並べられた洋酒全集は、中身はちゃんと消費されるのは言うまでもないことで、空になった瓶は安いウイスキーに入れ替えられてこれもしっかりと消費されるからまったく無駄というものがないのが文学全集とは違うところだ。


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