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脱・手作り宣言

30代に入ってから、料理を作ったり、教えたりする側の仕事をしていたこともあり、手間暇かけて料理を作ったり、下拵えをするのは当たり前だと思って、ずっと過ごしてきました。
料理を始める時最初にするのは、たっぷりの出汁を引くのが当たり前。
食材は無駄なく使って、なるべく仕舞いのいい仕事を心がけるのが常でした。
例えば「ほんだし」に代表されるような、顆粒だしやコンソメなどを使うことはなかったし、化学調味料や食品添加物も極力避けて、自然なものだけ使って料理を作るのが当たり前のことでした。
仕事をしながら、そうしたスローライフ的食生活を送るのはちょっと大変なことで、とはいえ譲れない一線のようなものとして、化学調味料を使わないということを考えていたように思います。
それは幸せな食生活を約束するように見えて、ちょっとした呪いのようなものでもあることに気づいたのは、ごく最近のことです。

「手作りは愛情の証」という呪い

子どもの頃、その半分くらいの時期を、専業主婦のいる家で育ちました。
母は恋多き女の典型のような人で、3度の離婚を経験しているのですが、「子どもを留守の家に置くのが可哀想」という考えの持ち主だったので、パートナーが居る時は専業主婦でしたし、離婚すると夜の仕事だったこともあり、家に帰れば母がいるのが常でした。
普段の料理は出来る限り、出来合いの調味料を使わずに作っていたし、洋裁が得意だったので服を作ってくれたりしました。
学校に持っていくスクールバッグを作ってもらったり、雑巾を縫ってもらったりといったことは、すべて母の仕事。
当時は、手作りは愛情の証だと世の中的に思われていたように感じます。
周りを見ても、学用品に手作りでないものを持ってきている友達はいなかったように記憶しています。
今はそんなことはないかも知れないですが、母親はかくあるべき、的なものが非常に強かったのではないかと思います。
お母さんって大変ですよね。
子どもが保育園なり幼稚園なりに入った頃から、学用品を手作りしたり、かわいいお弁当を作ったり。
私は子どもがいないので経験したことはないのですが、毎日のお弁当作りや、学用品づくりに毎週末時間をかけなければならないですよね。
そこに毎日の仕事や家事がたくさんあって、子どもの世話ももちろんあるとなると、あっという間にオーバーフローしてしまう気がします。
手作りは愛情の証、なんていう言葉はきれいごとで、そこまでの時間も手間もかけられないのが一般的なのではないかと思います。
手作りしたからすべて良いとは限らないことを思うと、それは呪いの言葉でしかないように今は感じます。

手作りの呪いが解けたきっかけ

私は今年51歳になりましたが、私くらいの年代だと、まだその呪いにかかっている人は多いように思います。
時々SNSなどで「自分の体を作るのは自分が食べるもの。だから手作りじゃなくちゃ絶対ダメ」といった意見を目にすることもありますが、そういう意見を言っている方は、ちょっと上の年齢の方に多い気がします。
おっしゃることはもっともなのだけれど、だからといって、自分の睡眠時間や休憩時間を削ってまで手作りをするべきなのか、ということには私は反対です。
ひとは健康的に生活するために、睡眠時間や休憩時間はきちんと取らないといけないものです。
それは肩書きが母や妻に代わったからといって、変わるものではありません。
心身ともに健康でいることは、毎日の笑顔を生む大切な要素のひとつだといえます。
自分が「手作りしなくてもいいんじゃないかな」と思えるようになったのは、病気をしたことが大きなきっかけになっています。
病気をして、思うように体が動かないなら、ひとりで暮らしているのだし、出来合いのものに頼ってもいいんじゃないか、誰が文句を言うわけではなし、と思ったのが、呪いが解けたきっかけです。
うま味調味料や顆粒だしも、別に憎むほど悪いものじゃないことが最近はわかっています。
添加物も最近は自然のものから作られたりしていて、私が子どもの頃とは違っています。
ドレッシングやタレの類も、お母さんが楽になるのなら、手作りしないで出来合いのものを使っていいと思います。
楽して美味しい食事が楽しめるなら、それに越したことはないと思うのです。
出来合いのものを使うことで少し楽をさせてもらって、その分でゆっくりお茶を飲むもよし、趣味の時間に費やすもよし。
手作りの呪いから解かれることで、もっと人間らしさを取り戻していければいいなと思います。

家庭の美味しさのキーワードは「ほどほど」

家庭で食べる料理の美味しさは、とびきりのものでなくてもいいと思います。
例えば、毎日が日本料理屋さんのような美しい盛り付けのしっかりした日本料理が出てくるとか、繊細な味わいのフランス料理が出てくる、ということでは、ホッとできないようなするのです。
外で食べるそうした料理が「ハレの日」のものであるなら、家庭で食べる毎日の料理は「ケの日」の料理です。
そういう意味でも、家庭の料理は「ほどほど」の美味しさをキープできたほうがいいのです。
もちろん、家庭で記念日のテーブルを囲むこともあるでしょうから、そういった時は腕によりをかけて手のこんだ料理を作るかも知れません。
でも、そうした日が毎日続くわけではないし、ときにはお茶漬けで済ませる夜もあるかも知れない。
毎日の食事を息抜きの場として考えるとき、あまり気合いを入れた料理でないほうが、肩に力が入らないというものです。
例えばクックドゥのような調味料を使って、中国料理をさっと用意することで、食べざかりの子どもたちの旺盛な食欲をキャッチできるのなら、それでいいのではないかなと。
もちろん、料理を仕事にしていた身としては、そのような調味料を使うことで料理が画一化される傾向にあることを危惧したりはしますが、無理して使い切れない調味料を冷蔵庫に死蔵したり、再現性のない料理をたまに作るくらいなら、「いつもの美味しいやつ」として記憶に残る料理を出すほうがずっと尊い気がします。
テーブルを囲むみんなが肩の力を抜いて、リラックスして食事ができる環境を、出来合いの調味料を使うことで作れるのなら、どんどん使えばいいのではないかなと思います。

食品添加物や農薬も今は進んでいる

出来合いの食材に含まれる、食品添加物や野菜に使われる農薬についてどう考えるかというところは、「エビデンスがあるので気にしない」が私の考えです。
こうした考えに至ったのは、有機農家として有名な方との交流の中で生まれたものです。
慣行栽培と有機栽培、味の面で比べたら変わりがないことを、農家の方たちは知っています。
「有機栽培=健康的で美味しい」は幻想でしかないとしたら、何を選ぶのがいいことなのか、よく考える必要があります。
食品添加物や農薬に関していえば、さまざまな都市伝説もありますが、水や食塩ですら、たくさん摂りすぎれば死んでしまうわけで、それと同様のことがこれらのものでもいえるので、定量的な意見については懐疑的です。
食糧を安定的に供給することで、飢えに苦しむ人々が救われるということも、農薬が生まれた理由として覚えておく必要があります。
今まで悪者扱いされてきたこうしたものも、時代とともにその製造方法が変わったり、環境や人体に影響が少ないものが生まれたりと、進化していることを念頭に置かなければいけないと思います。
こうしたものは必ずしも悪ではないということを頭の隅に置きつつ、ゆるい感じで許してあげることも、ときには必要なのではないかと。
たったひとさじのうま味調味料や、農薬を使った1束のほうれん草では、自分の体に影響がないのだとしたら、何を選ぶのがいいのか。
全体のバランスを見て、取り入れるものを考える必要があります。

自分で呪いをかけて、自分の首を絞めないように

手作りの呪いにかかることは、とてもかんたんなことではないでしょうか。
自分で何もかもイチから作らないと、そこには愛情がないと思い込んだり、楽な方を選ぶのは罪だと思うことで、わざわざ苦しい方法を選択するなんて、自分の首が絞まるのを喜んでいるマゾじゃないかと思います。
自分の心や身体をコントロールできるのは、ある意味では自分だけなので、もっと自分に甘くしていいのではないかなと。
手作りじゃないことで壊れてしまうような愛情関係は、壊れてしまってもいいような気がしたりします。
周りの人も、誰もが人として尊重しあえる関係でいるためなら、手を抜くことを許してあげて欲しいのです。
手作りが好きで、時間に余裕がある人はどんどんやっていいけれど、そこに無理が生じる時は、「誰かの手」を借りることも必要。
誰かが作っておいてくれたドレッシングや調味料は、今日の私を助けてくれる大切な「誰かの手」なわけです。
無理せず、ほどほどに美味しく、みんなが笑えるように。
なんとなく丸く収まることって、大事だなと思うのです。

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