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私が表現活動に取り組む理由

こんばんは、はじめまして。工藤梨央です。
ナレーションや楽器を通して表現活動をしたり、シックスパックを目指して日々筋トレに励んだりしたりしています。

幼い頃から、何かを創ることが好きでした。

料理をしてオリジナルのレシピを考えたり、色々な楽器使って作曲をしたり、家族でパーティーをする時には、毎回何時間も夢中になってひとりひとりに合ったものを考えながらつくって、家族にプレゼントしていたことを覚えています。小学生の頃には一生懸命模造紙やホワイトボードを使いながら、動画を編集したり音楽を入れこんでスタジオをつくって、アナウンサー役をやって、一本のテレビ番組をつくったり、大きなダンボールを切り貼りして、チケットをつくって、家で温泉宿ごっこをしたりしていました。高校生の頃には動画編集にハマって、何日もMacの前に張り付いて、ロゴデザインをつくったりしていました。


また、何かを創ることと同じくらい、「感じるということ」が好きでした。
散歩に出れば、何時間もアリを眺めて、日が暮れるまで動かないような子供だったと母は言います。自分のペースにはちょうど良かったのか、カタツムリを15匹くらい飼っていて孵化させてを繰り返し、ベタベタと幼稚園バックに貼り付けたり、手の上に載せて幼稚園に連れて行っていました。また、自然やクジャクやヤギなどの動物だらけの幼稚園から帰ると、友人の話ではなく、「今日は小人さんとこんな話をしてね」と、母に話していたそうです。(植物から何かを感じとっていたのかもしれません、、笑)小学校の頃は、早く家を出ているのに道端の植物がきになり、寄り道しすぎて、いつも遅刻ギリギリでした。笑

そして、大人になった今もその性格は変わりません。しかし大きく変わったことといえば、社会で自分の心が凍りついてしまうものを知ったり、押し殺さなければいけない場面に多く出くわすようになったことです。
いままで私が、全身でありのままに感じ、ありのままに表現するということを当たり前のようにしてきたのは、感じることで傷つかなくていい、守られた環境や人に囲まれていたからなのではないかと、社会人になってきて気が付いたときは、涙が溢れてきました。

感じるということは、私にとってとても尊いものです。たとえばどんなに生きづらさを感じたとしても、絶対に、失いたくないことです。

しかし、感受性は高いながらも、ロジカル思考が強い(診断による)私は、仕事をしていると環境や人によって、感じることに見事に蓋をしてしまうことがあるみたいです。

そんな私にとって、表現を通して何かを創造することは「呼吸」のようなものなのです。呼吸と同じように、しなければ、肉体は生きていても、精神は死んでしまうようです。(実際に精神を壊してしまったことが何度かあります)

感受性の高さはマーケティングの仕事には活かされるけれど、きちんと守らなければ、周りからの影響も受けやすいです。偶に大事なものを失い掛けて、気がついて、祈ったりしながら立ち返っています。しかし、それは私の個性であって、好きなところでもあり、決して治そうとか、よくないということは思っていません。

感じているから、私は表現をしたいのです。

唯一、私が自分でも気がついていない程、本音を話し、整理され解くような時間は「祈りの時間」です。
毎日習慣的に祈るのですが、この時間は自分の深い深いところに入っていて、愛や美しさに包まれていく、とてもとても大切な時間です。これもまた、呼吸のようなものです。
世界の根底には愛があることに、改めて気がつく時間です。どんなに世間に触れても、汚いものを見たとしても、立ち返らせてくれるんです。

だから、私は祈るように、表現をしたいのです。
私は「自己表現」には、興味がありません。ただ、ありのままに「感じていること」「知っていること」を加えたいのです。だから、私が表現をするのは、いつだって「工藤梨央」ではなく、「ただ、ここにある、世界」です。これは、わかっておいてください。笑

どうしたって美しいこの世界を、ただ表したい、と思うのです。

何かを強く訴えたいわけでも、何かに怒っているわけでもありません。意思があるかといえば、意思というものは、愛する為以外には、殆どないかもしれません。ただ、あまりにも、涙が出るほどに世界が美しいから、目には見えない、形にしてみたくて仕方がないのです。

ずっとずっとそうでした。

だから、私は永遠に、呼吸をするように、表現をしていきます。

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