地政学の逆襲 [抜書き]
アラブの春がチュニジアで起こったことは偶然ではない。古代ギリシア・ローマ時代の地図を見ると、今チュニジアがある場所には集落があって、現代の殺風景なアルジェリアとリビアとは全く違う様相を呈している。地中海にシチリア島近くまで張り出しているチュニジアは、カルタゴやローマ帝国だけでなく、ヴァンダル、ビザンティン、中世アラブ、オスマンの支配下にあった時にも人口集積地だった。過去2000年に渡って、カルタゴ(チュニス)に近い場所ほど、発展の度合いも高かった。実際、ローマの将軍大スキピオは、紀元前202年にチュニス郊外でハンニバルを破った後、文明化された領域を示すフォッサ・レジーア(境界溝)を掘りめぐらせた。これはチュニジア北西岸の町タバルカから南下し、それから真東に向きを変えて、地中海の港町スファックスまで続く溝で、今もところどころに残る。この境界線の向こう側には古代ローマ遺跡はほとんどなく、現代でも相対的に貧しく、発展が遅れ、失業率が高い傾向にある。青果の露天商が抗議の焼身自殺を図り、アラブの暴動の口火を切った町シディブジッドは、スキピオの引いた境界線のすぐ向こう側にある。
イエメンの不規則に広がった山がちな地形は、中央政府の力を弱め、その結果として部族集団や分離主義勢力の力を強める効果があったため、南北イエメンの統一は困難な道のりだった。またシリアの台形型の領土を見ると、民族や秋はアイデンティティによって国内が分裂していることが伺える。
古代ギリシアや中国の現実主義者に始まり、哲学者レイモン・アロンやホセ・オルテガ・イ・ガセトに到るまで全ての現実主義者が、人間を分断する国家などの区分にこそ、戦争の原因が内在すると考えていた。
イギリスは、ヨーロッパに近い島であり、したがって歴史のほとんどを通じて侵略の危機にさらされてきた。そのため、イギリスは、フランスをはじめ、英仏海峡と北海の対岸に位置するベネルクス諸国の政治情勢に、何世紀もの間、強い戦略的関心を寄せてきた。
なぜ、中国はブラジルよりも重要な国なのか?これも地理のせいだ。ブラジルはたとえ中国と同じだけの経済成長をとげ、同じ規模の人口を持っていたとしても、中国のように海と大陸をつなぐ主要な海上交通路を支配していない。また、中国のように国土の大半が温帯域に位置し、疫病と無縁で、爽やかな気候に恵まれていない。中国は西太平洋に面している上、石油と天然ガスの豊富な中央アジアまで続く陸の奥行きがある。ブラジルのはこうした競争優位がない。南米大陸として孤立しており、他の陸塊から地理的に離れている。
なぜ、アフリカはこれほど貧しいのだろう?アフリカは二番目に大きな大陸で、ヨーロッパの五倍ほどの面積があるが、サハラ以南の海岸線の長さはヨーロッパの海岸線の四分の一程度しかない。さらに天然の良港が少ない。サハラ砂漠のせいで、アフリカ北部(南部の間違い?)は長い間人的交流を阻まれ、古代以降の偉大な地中海文明と接触を持たなかった。豪雨と強烈な暑さにもさらされている。森林は文明を育まず、自然の境界にならないので、国家が生まれない。温帯域に位置し東西の広がりをもつユーラシアが、南北に広がるサハラ砂漠以南のアフリカよりも豊かな理由として、東西方向は気候条が同じなので、植物栽培や家畜化の新技術が広まりやすく、技術拡散が容易な点。
地中海とインド亜大陸に挟まれた地理的一貫性にかける国、イラクは強烈な民族、宗派意識に沸き立つクルド人とアラブ人のスンニ派とシーア派からなる、自然の国境を持たない国家を一つにまとめるために、代を追うごとに抑圧の度を増す必要があった。マクニールによれば、「メソポタミアの支配者たちは、中央権力を強化するために自然に存在する手段を利用できず、エジプトが持っていた自然の区切りに代わる人口的な手段として抑圧的な法律と官僚的な行政機構を、時間をかけて苦しみながら構築していかなければならなかった。
高地砂漠という厳しい環境的制約に阻まれたチベットとモンゴルでは、原子文明を超えるものは生まれなかった。チベット仏教徒は、彼らの信仰の起源であるインド仏教を常に意識していたため、中国化を拒み、競合するインド文明の伝統を積極的に取り入れた。
ヨーロッパの地理的優位性は、広大で肥沃な平原と、多くの天然の良港を作る入り組んだ海岸線、地中海の向こうまで交易圏を拡大できる航行可能な河川、そして豊富な木材、金属資源である。また、西ヨーロッパの沿岸地域は、スカンジナビアに近く、絶えずその軍事的圧力にさらされていたため、イギリスとフランスで国家形成が促された。
ロシアは森林地域によって多くの凶暴な軍から守られていたが、13世紀にはモンゴルの黄金軍団(オルド)の餌食になった。ロシアはこうしてヨーロッパのルネサンスから取り残され、苦い劣等感と不安感に永遠に苛まれることになる。ロシアは、森林を除けば侵略から身を守る自然の障壁を何ら持たない最後の陸上帝国であるため、残虐に征服されることの意味を深く身に刻み、領土を拡大、維持するか、少なくとも隣接する「影のゾーン」を支配しなければならないという強迫観念にとらわれるようになる。
中東は、森林がなく、砂漠がほとんどを占め、そのため遊牧民による侵略と、その結果としての混乱や革命が起こりやすいうえ、湾や海に周りを囲まれているせいで、特にシーパワーに恩恵を受ける一方で脅かされる。大中東圏は究極の不安定な中間地帯であり、地中海世界とインド、中国文明の間の無秩序に広がる通過点。
スパイクマンによれば、アメリカが当初繁栄したのは、東海岸の河口や入江が「港として絶好の条件を備えていた」から。
北アフリカが地中海世界の一部であり、サハラ砂漠によって遮断されているため本当の意味でのアフリカの一部となれないのと同様に、南米の北部沿岸はカリブ海世界に属し、本来の南米とは地理によって分断されている。アンデス山脈の渓谷は、北米の東海岸から西へ向かう通り道になっているアパラチア山脈の渓谷と比べると、狭くて数も少ない。この地域の河川は航行不能なため、チリやペルーなどの国は、東アジアと太平洋を隔てて、1万3000キロほど離れているだけでなく、アメリカの東西両海岸からも数千キロ離れており、世界的に重要な連絡路や移動経路になり得ない。したがって、大規模な海軍を構築することもできない。南米は、北米の真南ではなく東に少しずれているため、木々の生い茂るアマゾンのはるか南、リオデジャネイロからブエノスアイレスに至る南米の大西洋岸の人口密集地帯は、ニューヨークからはリスボンと同じくらい遠い。
レバノンのヒズボラはベイルートの政府をいつでも望む時に転覆させることができるが、あえてそうしない。国家は特定の原則に従わなければならず、そのため狙われやすくなるから。「国家は重荷である」という考え方。「統治する責任を負わずに、権力だけを求める」。
台湾は中国の湾曲した海岸線の真ん中に位置する「不沈空母」。この不沈空母を利用すれば、アメリカのような外部勢力でも、中国の沿岸部に対して戦力を満遍なく投射できる。このような事情から、中国は台湾の事実上の独立に激しく反対する。
クシャーナ朝やムガル帝国の時代には、今日のインド北部とパキスタン、アフガニスタンの大部分を含む、広大な地域は、単一の政治組織によって支配されていた。その点で、アフガニスタンが中央アジアの一部だと言うのは、西洋の見方で、インド人にとってはアフガニスタンは、亜大陸の一部。
アフガニスタンの人口の65%が、中世の古い隊商路にほぼ一致する幹線道路網から半径55キロ以内に住んでいるため、アフガニスタンにある342の行政区のうち、中央集権的支配にとって重要なのは80地区だけ。アフガニスタンはアフマド・ハーンの時代から、程度の差こそあれ中央から統治されてきた。カブールは常に権力の中心地だったわけではないが、少なくとも仲裁の中心地ではあった。1930年代初頭から70年代初頭にかけて、穏健で建設的な統治を経験した。主要都市は安全に行き来できる幹線道路網によって結ばれ、効果的な保険計画でマラリアが根絶されようとしていた。
参考文献
ロバート・D・カプラン 「地政学の逆襲」 朝日新聞出版.2014
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