花譜とインターネットと観測者

ここ数週間、神椿のコンテンツがインターネット上でどのように評価されているかということに重点を置いて見ている節があって、そういった議論も自分のTL上増えてきた気がする。

なぜ花譜とインターネットという大きい存在を並べて話をしようとしているかといえば、神椿が目指していることにある。

彼らは、花譜という言葉で表すのも難しい歌声を、良いと思えたを原動力に活動している(と思うんだけど)。それから花譜は、その才能をたくさんの人に見てもらうべく、そしてその価値を昇華させるべく、歌、映像、詩、ゲーム、ライブ、写真など様々なシーンになっている。自分たちが良いと思えた気持ちを信じて発信する。そして、観測者が良いと思えたことも吸収する。様々な人が思う良いと思えたもので成り立った存在だと思っている。それゆえに多角的な魅力が生まれる。

インターネットでは、閲覧数などの分かりやすい数字が評価になる。その評価をもとに情報の優位性生まれ表示されやすくなる。あとはその繰り返し。閲覧数があるものは、表示されやすくなるため閲覧数が伸びる。

元来、人々はわかりやすい情報に反応を示しやすい。そうなると、そこにはわかりやすさだけが重要視された金にしかならないコンテンツがあふれてくる。

見つけることも考えることもすべて受動的になった人間が生み出す価値とは何なのか。結果的にSNSや動画サイトは、共感を集めてるだけのゴミ箱になるし、コンテンツはわかりやすいところだけが切り取られ共感のおもちゃに使われる。コンテンツに食らいかかる人間たちも、自分なりの考えや感情ではなく、みんなが求めた、誰かが作った答えを探して歩き回る。

もちろんコンテンツのすばらしさは閲覧数でも、いいねの数でもない。自分はこんなインターネットが嫌いである。

花譜は、それに反逆していく姿勢をとっている、いや、反撃できるものであると思う。前述のとおり、花譜という価値は様々な人間によって見出され、多種多様な感じ方を認めている。むしろ、そうしてほしそうである。花譜のインスタグラムだって花譜展であふれていたファンアートや様々な作曲家によるリミックスもそう。作る人、見る人によってどんなことが起こるのかそれが試されている。

ただ、それは前述したインターネットの負の部分と表裏一体であり大衆がそれを感じていなければ面白さというものは、わかりやすさに成り代わっていく。

そんな価値観を持っているからこそ、売れる没個性になってほしくない。ただ、売れないバンドを求めているわけではない。そこで、インターネットという情報無法地帯で生き残るためにどうするべきなのか。

それこそ、観測という言葉にすべてが込められているのではないだろうか。

観測者が良いと思ったその瞬間、その時に出てくる言葉が、花譜が花譜でいられる理由になるし、花譜の知らない花譜を見出すきっかけになる。だから、SNSでもいいし絵でもいいし詩でもいいしコメント欄でもいい、花譜のいいところを、なんでいいと思えたのかを、自分の言葉にしてみてほしい。

中には、これは花譜と観測者という関係ではなく、観測者同士でも新たな価値の創造につながる。誰かがこんな良さを見出している、自分とは違う意見を持っている、そんなことすら面白くなってくるのだ。面白いことを面白いと思える、それを表現する。インターネットを通してみている我々も神椿の人たちも、観測者であり、そして花譜自身もそうなのかもしれない。

観測、共犯、共創。その言葉の意味にもう一度立ち返って花譜を見てみたらいかがでしょうか。楽しいものを楽しいといえることは良いことだし、自分の感性を大事にしてほしい。答えがあるものを見ているわけではないので。



(500文字超えるくらいならTwitter打と省略されちゃうしnoteに書こうと思った。)