見出し画像

私と自己肯定感の話

私は強烈に自己肯定感が高い。それはそれは高い。私、生きてるだけで偉いし、今日も仕事に行ったからまじ偉い、と、本気で思っている。その自己肯定感の高さはいつからか伝播した。

「私、ブスだし太ってるしもう30だし」と言い続ける女に「お前は可愛い、めちゃくちゃ魅力的な人間だ、そんなクソ男に消費されてる場合じゃない」と毎日言い続けたら9歳年下の彼氏を作って幸せに暮らしてるし、「貴方は才能がある、天才だ、何故そんな才能を持っているのに絵を描くことを諦めるんだ」と伝え続けた男は有名な画廊で個展を開いた。ちなみに宝くじを当てた奴もいるがそれはおそらく自己肯定感は関係ない。私、控えめに言って座敷童である。隣にいるといいことが起こる。なぜなら隣にいる人間の自己肯定感を爆上げしていくからだ。

あるとき、会社で働き始めた大学生のインターンの女の子に、「何でそんなに自己肯定感高いんですか…」と死にそうな顔をして聞かれたことがある。そうか、私自己肯定感高いやつ、と思われてるのか。

結構みんな、自分を肯定したくて悩んでいる気がする。自己肯定感が高いと自他共に認める私が、私と自己肯定感の話をしよう。

そもそも自己肯定感が高い、とは何か

誠に勝手ながら私は自己肯定感が高い、という自覚がなかったので、指摘されるまで気がつかなかった。ただ、個人的に、私は間違いなく自己肯定感を高める為の努力をしていると思う。努力せずに自己肯定感を高めよう何て言語道断なのである。世の中には確かに生まれながらの環境によって自己肯定感が高いやつ、というのは存在するが、私は違うので。頑張ることにしている。

冷静に考えてみよう。

自己肯定感が高い、とは何か。私は、自分への期待値が低いこと、と定義している。

生まれながらに大富豪で美人だったりしたら何もせずとも自己肯定感は高いのだろうが、残念ながら私は違うので、自己肯定感を高く保つためには、自分は万能ではないという自覚と、それを受け入れることがどうしても必要だ。

まず、私は自分への期待値が異様に低い。正直、朝起きて会社に行ったら偉いと思っている。仕事で成果を出したらその度に立像を立てて東京タワーの麓に置きたいと思っている。

前提として、自分は本来は何者でもなく、何もできず、大したことないと言っても烏滸がましい矮小な人間だという認識がある。そんな私が、朝起きた!?偉業!?!?となるのである。私の人生、うまくいかなくて当然なのだ。

ただ、ここで重要なのが、自分のクズさに甘んじていない、という点である。

そう、私は基本的に自分の感情を否定しないのだ。自己肯定感が高いので、ちゃんと怖いって感じる私、えらーい♡ 今日も頑張ろ♡ となる。

多分だが、自己肯定感が低い人間は、こう考える。

クライアントワークをやり始めて、お金をもらうことが怖い。私なんてお金をもらっていいのだろうか…そんな責任負えない。そもそもプロとして、こんなことを不安に感じてる時点で失格なのではないか…

責任ある仕事を完遂して当然、と思うだけでなく、それに対してプレッシャーを感じることすら良くないと考えている。仕事を完璧にこなして苦悩すらしないのなんて、天才かサイコパス以外無理だ。いや、きっと天才にも無理だ。デスノートのLにだって苦悩はあるだろう。だからあんなに甘いもの食べてるんだろうし。

自分への期待値が高いと、自己肯定感は下がる。なぜならほとんどの人間は凡人であり、うまくいかないのが当然だからである。自分に期待しているからこそ、何か些細な失敗で自分に失望する。それが自己肯定感を果てしなく下げていくのだ。

対してどうだろう。自己肯定感が高い、そもそもうまくいかなくて当然と思っている人間は、少しの成功体験で天にも登るほど楽しくなる。それが好循環を生んでいろいろがんばり始める。

自分への期待値が高いことは決して悪いことではない。きっとそれまでの環境や積み上げがあって上がって行ったのだろうし、それはその人のこれまで生きてきた素晴らしい履歴だ。ただ、それが自分の首を絞めるなら意図して手放してもいいんじゃない、という、ポジティブモンスター私からの提言だ。

運が良ければ努力をしなくていいのか?

昔、「自分は運が悪い。そのことをわかっているから努力するんだ」と仰る男性と懇ろになったことがある。ちなみに私の考えはこうだ。「私は運が良い。だから、頑張っちゃえばもっといいことがあっちゃったりするのでは~!?」。どうせ頑張るんだったら自分は運がいいと思っていた方がハッピーである。自己肯定感も同じだ。

どうせ頑張るのだ。どうせ生きていくのだ。だったら前向きな方がいい。

一応、念のため伝えておく。

無責任たれ努力をするな、と言っているのではない。なんだかこの記事、三島由紀夫の「不道徳教育講座」みたいになっているが、私は仕事に対して無責任であれと言っているわけではない。自分への期待値が低いことと、責任を負わないことは全く違う。自分がなんでもできるわけではないことを自覚して、だからこそ努力をし、そこから積み重なる小さな成功体験を少しずつ積み重ね、自分を褒めること。それが大事なのだ。

私は元々、自己肯定感が非常に低い。親の教育の賜物で、「私は可愛くて頭が良い」と思っていたので(まあ実際はそうでもないが、そう思わせてくれた親には感謝しておる)、些細な失敗でいつもイライラしていた。完璧でなければ許せず、一番でなければ嫌だったし、ある時までは自分より頭いい人も可愛い人も嫌いだった。今思えば恐ろしく生きづらかったと思う。

あるときどん底を見て、その考えを手放した。集中治療室から目覚めて「生きてた、よかった」と思ってからだ。どん底見たやつは強い、というが、なぜ強いのかというと反骨精神云々ではなく生きてるだけで偉いと思える自己肯定感が身につくからだと私は思う。

そもそも、自己肯定感が低い云々で悩んでいる人は、その場に置かれれば努力をする。重ね重ね恐縮だが、どうせ努力するなら一回一回の努力で自分を褒められた方がいい。こんな努力当然だ、みんなしてるし自分はマイナススタートだし、と思うより、「今日も頑張っちゃった☆偉い♡」と思う方が幸福度は高い。

自己肯定感を高めるためにどうするか

結局これを聞かれる。まあ、正直こう思う。

筋トレをしなさい。

ネットでジョークのように言われるこれだが、筋トレは自己肯定感が確かに上がる。待って、聞いて!今からなぜ筋トレで自己肯定感上がるかを解説、いや、そんな話がしたかったんじゃなくて。

なぜ筋トレで自己肯定感が上がると先達が言うのか。簡単にいうと、「達成」がそこにあるからである。あと一回、きついけどもう一回、それを達成したという小さいけれど大きな達成が自己肯定感を育む。だから別に筋トレである必要はない。

自己肯定感の低い人は、「どこかにある、不明瞭な高い目標」を常に追い続けているような気がする。それを、身近で、今日中に達成可能な目標を作ることに置き換えるだけで自己肯定感は上がっていく。

我々は人間なのだ。基本的に、終わりのないものを追い続けるのは辛い。既婚者と不倫している人はよく、「本当に愛し合ってるのは私と彼なの、彼のお子さんが大きくなるまでは奥さんと離婚できなくて…」というが、つまり、お子さんが大きくなって離婚しても問題ないようになるまで耐えれば幸せが待っているという、一瞬のゴールがあるから頑張れるのだ。いや、あまり良くない例えだろうか。

ゴールがなければ走れない。24時間テレビの100kmマラソンだって、ゴールがある。いつまで走ればいいのか分からない状態で走り続けるのは心が折れる。終わらない戦いには挑めない。多分、自己肯定感が低い人は、自分への期待値が高いが故に、遠く抽象度の高い目標を置きすぎている

常に手元に見えるゴールをおこう。少し頑張ったら達成して、それにつけてご褒美を自分に渡して、にんじんに釣られるように少しずつ頑張っていくべきだ、と。元自己肯定感低い私はそう思う。

今日の午前中にやるべきマストワンを決めて、それができたらおいしいランチを食べよう。午後にやるべきマストワンを終えたら1日にマストワンを二つもこなした偉業を讃えよう。マストワンのはずがツーに!?天才!?!?と思おう。

大丈夫。貴方は素晴らしい。

なんの話をしているのか分からなくなってきて、本日はこれで終了です。はあ、ノート書いた私偉い。めっちゃ偉いな~!


以上です!

スタートアップでがんばっております。ぜひ翼をさずけてください。