じぶんが決める〜選択すること
あなたは、人生の岐路に関することを、じぶんが決めた、でしょうか?
「選択」「自分が決める」ということについて考えてみました。
というのは、たまたま見た記事に、
#自分にとって大切なこと
という記事投稿イベントを見かけて、
丁度いい機会、考えの整理に書いてみようかな、とこれを書いています。
そして、じぶんのこころで決める、
ということが、生きる質において、とても大切だと、
対人支援の仕事を、ずっとしてきて思うことでもあるからです。
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2020年3月末に10年間勤務した教育研究機関を退職し、
おおよその方向は描いていたものの、
実際にはさらに詳細にプランする必要があると思い、
では、50代のこれからをどう生きようか、
言い古された感があるけれど、
「軸を決める」が必要な気がしていたのです。
ビジネスコーチについて、
まさに「何を大切にしたいのか」を探ってきた半年間。
そこで抽出されたことが、
「じぶんで決める」
これは、私自身がそうしたい、でもあるのだけれど、
他者への視線としても、
「あなたが決めることを尊重する」
ということでもあるのです。
アメリカ、コロンビア大学のビジネススクールの
シーナ・アイエンガー教授が著した「選択の科学」は有名でしょう。
アイエンガー教授は、
インドから移民した厳格なシーク教徒の家庭で育ち、
食べ物や服装、結婚相手などは自分で自由に決めるものではないと思い、
さらに、目の疾患のため高校時代に視力を失ったのでした。
しかし、アメリカの学校教育で彼女は驚きます。
「自分のことは自分で決める」ということに。
このエピソードを知り、私が思ったことがあります。
この日本でも、多くの人が、
自分で決めた・選択した、と「なんとなく」思っているけれど、
実は、幼いころからの他者の言葉によって
刷り込まれたことを、意識下に置いて、
その刷り込みを自分のものとしてしまっているのではないか、
ということです。
いいことも、そうでないことも。
例えば、私の場合ですと、
「色黒だから、着物が似合わない」
「手ががんこで厚いから、男の人と手を繋いだらびっくりされないかしら」
「わがまま」
「素直じゃない」
などなど、母から言われた言葉は、
そんなことはないと自分で思いながらも、
長いこと、心の中に巣くっていたと思い出されます。
何かをする際に、
これはわがままと言われないだろうか、
つき合った人に、
手が嫌だと思われないだろうか、
などと思ったものです。
こういうことは私だけでしょうか?
幸い、自分の意見や行動を支持されたり、
手のことを気にしない人とつきあったおかげで、
自分の体験の中で、ひとつひとつ、呪縛が解けていきました。
そう、自分が思ったことでもないことに縛られていることは
結構あるのではないでしょうか?
人は多くの場合、ほめ言葉の方が心に残りにくく、
コミュニケーションスキルでも、
ほめたりお礼は、同じことについて3回はくりかえすといい、
なんてことも言われています。
反して、ネガティブな内容や批判は、
1回でも心に突き刺さり、残る場合があります。
人は強いものでもあるけれど、そう強くないとも思えます。
些細なひとことに左右され、翻弄され、
ほんとうに自分のこころから湧き上がる感情から選択する、
ということが出来ていないことは多いのではないか、
としばしば思うのです。
こころで決める、と、
頭で決める、では、
引きだされる「答え」が異なることはよくあることです。
「ほんとは、こうしたい」
でも、
「ここではこうすべきだろう」「こうするほうが常識だ」
「こうしないと悪く/無能に/嫌だと思われる」
みたいに、状況判断で出した答えを、
自分が決めたと、自分ですら、
自分の選択だと思い込んでしまうことがあります。
特に、人生の岐路に関わるようなとき、
頭で決めたとき、後々、
こころが苦しくなる、
こころが軋む、
ということがあるのだろうと思います。
だから現代では、
「自分を生きよう」とか「自分らしく生きるには」という類の
講座やカウンセリング、コーチングがこんなに増えているのではないかと、
ひそかに、私はそんな風に思ったりもしているのですが。
そのこと自体は決して悪いことではないと思います。
苦しいとき、辛いとき、モヤモヤするときなど、
他者の助けを借りることは大切ですし必要だと思います。
とはいえ、生きていく上で、最後に決め手になるのは、
「自分で決める」
という本人の意思なのではないか、と思うのです。
言い換えれば、
覚悟
とも言えるでしょうか。
この覚悟ができるには、
「自分」というものを、ある程度、
深く知ることが必要なのではないでしょうか?
アイエンガー教授のワークシートを私は購入しました。
そこにこういった内容がありました。
『人生は「選択」「偶然」「運命」の3つから成り立っている、
この中で、自分の意思でコントロールできるのは選択だけ、
人生をより良く生きようと思えば、選択の質を高めることが大切になる』
選択するためには、
自分が何を欲しているのか知る必要があります。
50代になる私の眼には、
イマドキの若い世代の中には、自分の気持ちに添って、
自分のしたいことを追求して、軽々と生きている、
と感じる人がいます。
目を転じて、よくよく観れば、同世代にもそういう人がいます。
そうかと思えば、若い世代にも、
汲々と悩んで、頭で決めるとこころで決めるの間を
行きつ戻りつしている人もいます。
どちらがいいとか悪い、という話ではありませんし、
悩む時間も大切だと思います。
とはいえ、たくさん悩んできた50代の私は、
いくばくかの覚悟も持って、
軽やかにいきたいな、と思うのです。
偶然も運命もありましょうが、
それらをどうにもできないのなら、
自分でできる選択は、心残りなく選択したい、と思うのです。
それらの選択を、
意固地でもなく、
がんこ”過ぎる”こともなく、
悲観しすぎることもなく、
軽やかに、
しなやかに、
できる自分でありますように、という願いと共に思います。
と同時に、
「こころで決める」
「自分で決める」
に躊躇する方も多くいらっしゃるようにも感じてきました。
特に病気や介護、人の”生き死に”に絡む場面では
それが色濃く出る傾向があるといえます。
直面して、深く悩む方は多いのです。
そのような際に、
その方の「こころで決める」「自分で決める」ができるよう
サポートすることに、
保健医療の現場に長く、研究にも長く関与し、社会福祉も学んだ、
この”自分”という資源を社会に役立てていけるのではないか、
とも思ったのです。
「自分で決める」はシンプルですが、複雑でもあります。
その複雑さを、ご本人と一緒に解きほぐしながら、
「自分で決める」に寄り添うことで、
社会として各自の「自分で決める」を大切にできる、
ということに役立てたら、とも思うのです。
つまり、「自分で決める」という、
選択することができる、
という社会があって、成立することでもあり、
そのような環境をも大切だと思っている、
ということを、いまここに書き綴ることで、認知できた、
といえそうです。
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