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【ジャーニーイング】2021-10-03

*色々な形のジャーニーイングがある中で、何かとセンシティブなこともあるので、ジャーニーイングのコンテクスト(メディスン、手法、など)ではなく、ただ体験と気づきを記していきたいと思います。特に今日は、短い時間ながらインパクトの大きなジャーニーだったので記しておきたく。また過去のジャーニーイングの体験も追って書き記すかもしれません。

*ジャーニーイングとは、ここでは、安全なセット&セッティングの中で変性意識を旅する体験のこととします。

意図設定

導入の瞑想の時、「I am here to ...」そして「I am really here to ...」と、この場にいる意図を明確にしていった。その時に出てきたのは↓↓↓。

I am here to see

I am really here to go there (to experience)

私は「見る・目撃する」ためにここにいる。

私がここにいる本当の理由は、あそこへ行く(体験する)ため。

その時はまだ、「ふーん、なるほど」と思うくらいで、この意図が今回のジャーニーイングの体験にどんな影響を及ぼすかなんて想像もつかなかった。見ること。体験すること。

私たちの在り方

変性意識に降りていく(昇っていく?)中で、まず初めに出てきたのは、アジェンダ(計画、予定、議題)を持たないことの大切さ。アジェンダを手放すことで光の流れを妨げることなく、光に触れることができる。アジェンダは複数の透明の膜のようなレンズとして私たちを覆っていて、光を屈折させる。私たち自身が(アジェンダを持つことで)光を遮っているということ。

意図的にアジェンダを手放していけば、光はいつだってそこにある。

プルシャとプラクリティ

「光」から、見ることと照らすことについて。サーンキヤ哲学のプルシャとプラクリティについて。プルシャが照らすもの。プラクリティが世界を形作るもの。プラクリティが世界を顕現させると、プルシャが世界を「見る」ことで世界を「照らして」いる。あるいは「照らす」ことで「見て」いるのか。観照?

この美しさに触れていると涙が溢れてくる。これまでに創造されたあらゆるものがこの光に照らされている。その光は本当に美しくて、この光の存在に触れること自体を美しいと感じる。すべてを照らす光。この光に触れていることが嬉しくて、この気づきと畏敬の念に近い感動で、喜びの涙が溢れてくるほど。

すべての生けとし生けるもの、すべての物質、分子まで、この瞬間、すべてが平等に照らされている。いかなる苦しみも、厳しい体験も、暗い考えも、残酷さも、すべてが平等に照らされていて、その一瞬一瞬が儚く、その儚さが悲しくもまた美しい。

「有り難い」ということ。生きていること、存在していること、その有り難さ。

宗教的に育ってこなかったし、宗教には入っていないし、特定の宗教を信じていないけれど、宗教を持つ人が祈る気持ちがわかる気がする。感謝の気持ちを身体中で感じている。特定の神様を信じているわけではないけれど、神様的な存在に祈っている感じ。何かを求める祈りではなく、ただ、神的な存在との繋がりを感じている祈り。一瞬一瞬の体験をフルに体現し感じ取ることで、すべての瞬間が祈りになる。

ここで湧いてきたイメージは、プルシャが自分の外側を照らしてみても何も見つからなくて、ひどく孤独だったということ。この孤独を思うととても悲しくて涙が出てくるほど。この孤独の中でプルシャは内側に目を向ける。そこには全て(プラクリティ)が存在している。

マトリョーシュカ

永遠・無限であるプルシャが、その内側にある永遠・無限を見る様子は、まるでマトリョーシュカのようだ。私たちは自分の内側をマトリョーシュカのように見つめている。魂のひとつひとつがその内側を見つめる、永遠のサイクル。プルシャを見つめる、終わらないサイクル。

宇宙の中をマトリューシュカが漂っていると考えるとちょっと可愛らしくてちょっと可笑しい。マトリョーシュカを開いていくと、次の宇宙が開かれて、また次のマトリョーシュカ(宇宙)を開く。最後のマトリョーシュカを開くとまた最初の宇宙に戻っている。(ここで、自分の工作プロジェクトとして、宇宙マトリョーシュカを作ることにする)

受け取ること、与えること、それが同時に起きている。それは、暗くネガティブなことも含めて。暗いとかネガティブであるとかということは、あくまで視点であって、真実ではない。すべてはプルシャのニュートラルな視点(光)に照らされている。その光の中では、ポジティブだとかネガティブだとか、良いとか悪いとか、光だとか闇だとか、そういうものは存在せず、すべてが平等に照らされている。その平等な光の中で、すべてはただあるべきようにある。

すべては体験されている体験の一部。私の体験は私だけの体験ではなくプルシャの体験であり、すべての体験がプルシャの体験であるということ。すべてが目撃され、興味深く観察されている。何も観察するものがなかった時、プルシャの世界はさぞかしつまらなかっただろうと思う。もしかしたら、あまりに孤独であまりに退屈だったから世界を作ることにしたのかもしれない。

内側を見る視点

内側を見ていくことにだって、そんなふうに興味深く観察する視点が必要だ。私たちはひとつの視点に縛られる必要はまったくなくて、そこに引っ張られる必要もない。もちろん、その方向に意図を持って進んでいくことには価値があると思うし、得るものも大きい。この点はジャーニーイングを続けていく上で、ジャーニーをする自分にとってもクライアントのジャーニーをファシリテートすることに関しても言えること。

ネガティブなことを見ていってもシャドウワークをしていってもいい。でもそこに引っ張られて暗いループに入っているとしたら、その世界に今、幼い子どものような無邪気な興味を持って留まっているのかどうか、一度見ていく必要がある。そういう視点が一切なくてただ苦しいところでもがいているのだとすれば、今いるところが、本当にいたい場所なのかいる意義のある場所なのか、考え直してみたほうがいい。自分ががんじがらめになってしまうような「思考」を排除しながら。

そうやって自分の内側を見ていくことは無限の可能性につながっていく。ひとつひとつの瞬間、思考、感情、体験。

無限について思いを巡らす。プルシャが無限だとすれば、無限の外側というものは存在しないのかもしれない。だとすれば見ることができるのは内側だけだ。内側に存在する無限。

無限を見る。宇宙。この大きな空間。

この空間で、ひとつひとつの瞬間に、すべてはあるべきようにある。あるべきように受け止められ、平等に照らされている。

事後の統合

プルシャ ≒ プラクリティ
気づき ≒ 体験そのもの
神的なもの ≒ 私、あなた、すべて

プルシャ = 気づき = 神的なもの
プラクリティ = 体験そのもの = 私、あなた、すべて

イアン・マクギルクリストが著書『The Master and His Emissary』 で、LongingとWantingの違いについて触れている箇所がとても好きで、まさに今回のジャーニーイングで気づいた関係性はLongingの働きだと感じる。

Wanting is clear, purposive, urgent, driven by the will, always with its goal clearly in view. Longing, by contrast, is something that "happens" between us and another thing. It is not directed by will, and is not an aim, with the ultimate goal of acquisition; but instead is a desire for union - or rather it is experienced as a desire of re-union ... Wanting is clear in its target, and in its separation from the thing that is wanted. Longing suggests instead a distance, but a never interrupted connection or union over that distance with whatever it is that is longed for, however remote the object of longing may be.

終わりに

これまで何度も様々な形でジャーニーイングを体験する機会を経て、今日の体験は短い時間の中に私が真理と感じるようなものがぎゅっと濃縮されて、それがしっくりとハラに落ちる体験があったので、記憶が鮮やかなうちに書き記しておきたいと思ったのでした。上には、ほぼ時系列で体験したことや気づきを書き連ねていったけれど、変性意識でおきていることなので、そこに一貫性や線形の流れがないことも織り込み済み、ということで。

さっきさっそく工作用のマトリョーシュカを注文したので、楽しみ!

追記

アジェンダについて。言葉を変えればエゴと言えるかもしれない。この体験の翌日、『The Fellowship of the River』の著者であるJoe Tafurのオンラインレクチャーに参加する機会があり、「ego blocks the flow of the medicine」的なことを述べていたのを聞いて、あ、これって私が体験した「光」と「アジェンダ」の話と連動するなと感じたので、忘れないうちに記しておきます。

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