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ちいかわにおけるモモンガと「あのこ」の位置づけ

ちいかわの初期コンセプト案

ちいかわに名前が付く前の初期コンセプトでは、「働かずに食って寝るだけ」「かわいいので無限に甘えられるし無限に許される」という、赤ん坊のように責任を負わされず享楽を維持される願望を描いたものでした。

この手の話はネットミームとしては「はやくこれになりたい」とコメントが付くような、自堕落な願望の垂れ流しで、どちらかと言えばミームに近く、お話になるようなものではありませんでした。

ちいさくかわいく世知辛いコンセプトへの転換

ちいかわは、何度か描かれているうちに「ちいさくてかわいいけど世知辛い」「世知辛い世を渡っていくために努力して成長する」というコンセプトに切り替わり、人気を博すようになっていきます。

世界には「お金」と「勤労」の概念が存在することも明らかに……。え、お金!?!?!?!? そう。赤ちゃんのようなちいかわも、実は見えないところで汗水垂らして働いていたのでした。
(……中略……)
「なんか小さくてかわいいやつになって暮らしたい」という社会からの逃避として生まれたちいかわは、逆に社会へと放り込まれてしまったのです。さ、最低~~~!!! これこそが「ちいかわ」最大の歪みであり、同時に最大の魅力となっていきます。

「ちいかわ」はなぜ読者を狂わせるのか?助けてください、僕らはふわふわの綿あめで首を絞められています [戸部マミヤ,ねとらぼ,2020年12月19日]

このコンセプト転換は、労働を題材する、あるいは理不尽に立ち向かうということから大人向けの要素もあり、一方で赤ん坊からもう少し年齢が上がった少年漫画的(特に討伐回では能力バトルになるので顕著)な題材という要素もあります。

最近の山姥編は、ちいさくてかわいい童話的ファンタジー、いつ急転直下するか分からないホラー、怪物との能力バトル、そして切り札が草むしり検定3級の知識である労働回の要素と、ちいかわの話に含まれる様々な要素がひとところになったちいかわらしいお話でした。

初期コンセプトに忠実なモモンガ

以上のようにちいかわ世界が世知辛くなる中で、初期コンセプトの「働かずに食って寝るだけの生活」「かわいいので無限に甘えられるし無限に許される」というスタイルを露悪的に強調したのが「モモンガ」というキャラクターでしょう。

このキャラクターは努力せずわがままを通そうとする、若干悪役気味な配役になっていますが、初期コンセプトとの関連で考えれば「ありえたもう一つの主人公」でしょう。

かわいさでなく強さで何でも許されようとする「あの子」

モモンガは元々は怪物(でかつよ)で、「かわいいので何でも許される」ことを求めてちいかわ族の体を乗っ取ったことが示唆されていますが、その逆にちいかわ族が怪物化したことが示唆されている「あの子」と称されるキャラクターもおり、この2名はペアにされていて同一週内に対照的なストーリーが掲載されることがあります。

「あの子」は弱い故にちいかわ世界の世知辛い成分のつらさが身に染みており、怪物化し強くなったことでそのつらさから解放され、満足していると取れる心的描写が繰り返し出てきます。討伐の対象となったことと引き換えに、討伐以外何にも煩わされず食って寝るだけの生活を手に入れ、最近はその討伐すら力を見せつけるチャンスとして楽しんでいるような描写が入りました。「あの子」は、初期コンセプトの「なんでも許される」が、「かわいいから」ではなく「強いから」にひねった、の別方面からのアプローチをキャラクターにしたものでしょう。

最近の回では「あの子」がモブちいかわ族と一緒に歌って踊って楽しむ描写が出てきており、それを過去の話から討伐者を油断させるための擬態として解釈しているリプライが多くありましたが、過去の擬態型のような変身は行っていません。今回の描写では、むしろ幼稚園児のような「歌って踊って美味しいものを食べてキャッキャ言う」というちいかわ族としての習性はそのまま保持していて、擬態などではなく心底楽しんであり、そのうえで自分の強さを確かめ弱者をいたぶる快楽がそれに加わったという、放っておくといじめが起きてしまう子供(あるいは大人)のナチュラルな怪物性の比喩というほうが自然なように思えました。

ちいかわ世界の怪物は「こうなりたい」と願えば実現できる世界において、願いにふさわしい体になっただけで、心はちいかわ族ボディと連続性があることが改めて強く印象付けられます。

ちいかわ世界における「自堕落な欲望の代償」

モモンガや「あの子」は、初期コンセプトの自堕落でも許される願望に近いキャラクターでありつつ、作中では「わがまま放題で周りに迷惑をかける」というある種の悪役のような立ち位置になっています。これは、話を進めていく中で努力と達成のほうがウケるので相対的にこうなったとも考えられますし、初期コンセプト案をそのままやったらこうなるというナガノ先生自身の逡巡の結果かもしれません。

ただ、放っておけば調理済みの食べものが湧いて出てくるという、初期コンセプトに近い自堕落な生活を許す世界観も維持しています。それを覆してきたのが通称飢餓編で、あの世界が維持されるには何らかの代償が必要である、ということを示唆するものでした(話としてはモモンガが疲労と努力と達成感の満足度を覚えて、少し精神年齢が上がるという話に落ち着きましたが)。

また同じ強キャラでも、「あの子」は努力せず力を手に入れ恣に使うために討伐対象となっている一方で、らっこ先生は「ちいさくてかわいくて、しかも強い」と全てを手に入れつつ、努力と謙虚さがなくてはその高みに至れない、「良い大人になること」としての位置づけがされています。

モモンガや「あのこ」は、コンセプトの揺れと、その揺れに対するナガノ先生の様々な逡巡がまとめたものなのだろうと私は解釈しています。

世知辛い要因その2

また、ナガノ先生は以前に「ベルセルク」のファンアート(バーキラカ、ラクシャス、ダイバのクシャーン生き残り組)を投稿しており、「ベルセルク」の作品性にあるような、ハードでタフな世界、ないし「尊厳凌辱」と言われるような展開が割と好みだという話があります。

でかつよ、怪異の類は「望むままに生きたい」という強い願望から〈蝕〉を経て身体が変化した使徒で、ちいかわ族はベヘリット内蔵生物だと思うほうが良いのかもしれません。

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