日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その5

久しぶりに柄谷行人について書いてみようと思う. 今回の記事は『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(柄谷行人, 作品社, 2021年)を取り上げる.

1 目次の紹介

この本の目次は以下の通りである.

序文

I NAM(ニュー・アソシエーショニスト運動)再考

 1 NAMの開始と解散

 2 1990年代の動向

 3 生産過程から流通過程へ

 4 アナーキズムとマルクス主義

 5 NAM再考

Ⅱ さまざまなるアソシエーション

 1 協同組合とアソシエーション

 2 アソシエーションとデモ

付録 NAMの原理

簡単ながら以上である.

2 序文の検討

柄谷はこの本の目的について次のように語っている.

「本書は, アソシエーショニスト・運動を検証し, その可能性をあらためて示すものである. アソシエーショニスト運動というのは, 私が提起したものではない. むしろ, 一般名詞である. 簡単にいうとこれは, 自由かつ平等な社会を実現するための運動である. アソシエーショニスト運動の歴史は長く, 内容は多様である. そして, もちろん現在も存続している. 私は, これは誰にでも実践できるものであり, 現在のもろもろの危機への最後の砦となるものだと考えている」(7ページ)

アソシエーショニストという単語は, アソシエーション+istという単語の合成である. そしてアソシエーションの意味について簡単に紹介することが, この引用を解説するのに必要なことであるように思われる. ところがその解説は途端に困難なこととして現れるのである. なぜならば, 柄谷の述べる通り, アソシエーショニスト運動は長い歴史を持つものであり, 現在にも続いていて, さらには未来にも続くだろうものだからである. 要するに過去のものとして記述することができないからである.

ただ, これではアソシエーションについて何にも説明してないに等しいので, 柄谷にアソシエーショニスト運動を説明させよう.

「(1)NAMは, 倫理的ー経済的な運動である. カントの言葉をもじっていえば, 倫理なき経済はブラインドであり, 経済なき倫理は空虚であるがゆえに.

(2)NAMは, 資本と国家への対抗運動を組織する. それはトランスナショナルな「消費者としての労働者」の運動である. それは資本制経済の内側と外側でなされる. もちろん, 資本制経済の外部に立つことはできない. ゆえに, 外側とは, 非資本制的な生産と消費のアソシエーションを組織するということ, 内側とは, 資本への対抗の場を, 流通(消費)過程に置くということを意味する.

(3)NAMは, 「非暴力的」である. それはいわゆる暴力革命を否定するだけでなく, 議会による国家権力の獲得とその行使を志向しないという意味である. なぜなら, NAMが目指すのは, 国家権力によっては廃棄することができないような, 資本制貨幣経済の廃棄であり, 国家そのものの廃棄であるから.

(4)NAMは, その組織形態自体において, この運動が実現すべきものを体現する. すなわち, それは, 選挙のみならず, くじ引きを導入することによって, 代表制の官僚制的固定化を阻み, 参加的民主主義を保証する.

(5)NAMは, 現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり, それは現実的な諸前提から生まれる. いいかえれば, それは, 情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的諸矛盾を, 他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えることである. したがって, この運動には, 歴史的な経緯の吟味と同時に, 未知のものへの創造的な挑戦が不可欠である」(8-9ページ)

この5つの項目について, それぞれ簡単ではあるものの補足説明を行う. まず(1)については, 経済一辺倒になることも倫理一辺倒になることも, NAMにおいては否定されるべきものだ. ということである. 人間は生物的な意味において「動物」であるから, 全く経済的な活動をすることなしに生存することはできない. その意味において人間は経済的動物である. しかしながら人間は同時に, 古典的な意味において(例えばデカルトの意味において)「動物」ではないから, 他者への配慮という意味での倫理を全く欠如させて, 生存することはできない. その意味において人間は倫理的動物である. したがって, 人間は<経済的ー倫理的>動物なのであるから, 経済ないし倫理の片方を全く無視した運動をすることは, NAMの原理に反することになるのである.

次に(2)については, 資本制=ネーション=ステートという, 非常に強固な三位一体に対抗する際の, 資本制に対する対抗についての記述である. 資本制経済は現在のところ, 人間社会に根ざしているものであるから, 人間は資本制経済の外に立つことは不可能である. しかしながら人間は資本制経済の外に立つ必要があるのである. なぜならば資本制経済は人間を手段としてのみ扱うように, 人間の思考を仕向けるからである. 資本制経済の外側に立つためには, 非資本制的な生産過程並びに消費過程を確立し続ける必要がある. と同時に資本制経済の内側においては, 資本が売っている商品を買わない, という意味で資本に, 消費者としての労働者, として対抗することが必要だということである.

(3)については, 国家への対抗運動に対して注目を当てたものである. 具体的には「暴力革命」の否定は当然として, 国家権力の獲得をも否定するというものが必要であるというものである. これは, ガンジーの非暴力による抵抗を思い出させる内容であって, 無抵抗を貫くという運動ではあり得ない, ということの表明でもある.

また(4)については, NAMが目指すべきものをNAM自身が実践することが必要であることを表明するものである. そして国家権力そのものの廃棄を目指すのだから, 権力の固定というものを避ける必要があるために, そして民主主義を参加型として確立し続けるために, くじ引き(能力が求められる立場を選ぶ場合には, ある程度まで会議によって決定し, 最後はくじ引きによって一人を決める)という仕組みを採用する, ということである.

最後に(5)については, 現在という名の現実を虚心坦懐に見つめることを, 過去を吟味し未来を想像するという視点で行うことが大切であることを述べたものである. つまりNAMは徹頭徹尾, 空理空論を述べてはならないということであり, 徹頭徹尾, 人間と自然との関係という現実を語る必要があるということである.

3 アソシエーションは, 向こうから来るものだ

以上で簡単にアソシエーショニスト運動について概説したことになるわけであるが, 柄谷は次のように述べて序文を終えている.

「私は, 未来の社会は「向こうからくる」といってきた. これは, 自分の意図や企画を超えて起こる, という意味である. 実際, NAMを立ち上げたのも, その一貫として「批評空間社」という出版社を立ち上げたのも, 依頼を断わりきれなかったり, 事情にせまられていたりして, しかたなくという流れの中であった. つまり, それらは「向こうからきた」のである. 同様の意味で, コロナをきっかけに, 困難とともに, 新たなアソシエーションの可能性が向こうからきた, といえるのではないだろうか」(11ページ)

この引用に, この記事の読者がなにを見い出すのか...それこそ「向こうから来る」ものなのかもしれない!

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