クライシステオロジー, つまり危機神学 その6

クライシステオロジー(日本語にすると危機神学)の話を,カール・バルトという神学者の『ローマ書講解』を取り上げながら行おうとするシリーズは,前回のこの記事を書いてからしばらく途絶えていた。この記事は,前回に引き続く形で書かれるものとなる。

1 本記事で扱う範囲における「ローマの信徒への手紙」の引用

引用を行う前に注意すべきことがある。それはここで引用されるものは,バルトが手ほどきを行ったところの「ローマの信徒への手紙」であるということだ。この意味は,ここでなされる引用が必ずしも,いわゆる「聖書」(より具体的には「新約聖書」)の形と一致しているというわけではないということだ。どうかその点に注意した上で,以下を読み進めてもらいたい。

「八節 まず初めに,わたしは,イエス・キリストによって,わたしの神に感謝する。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからである」(『ローマ書講解』上,邦訳75ページ)

「九-一〇節 パウロとローマのキリスト者たちとの間には,偶然的,外面的という以上の関係がずっと以前から存在している。というのは,わたしが霊により,その御子の救いの音信を伝えることによってあがめている神こそが,わたしが祈りのたびごとに,どれほど絶えずあなたがたを覚え,いつかはきっと神の意志にかなって,あなたがたのところに行けるようにと願わないことはないということについてのわたしの証人だからである」(同上,邦訳76ページ)

「一一-一二節 わたしは,あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の恵みのいくらかを分け与えて,力付けたいからである。というよりはむしろ,あなたがたの中にいて,あなたがたとわたしとが共に出会うであろう信仰によって,共通の慰めに達するためにである」(同上,邦訳77ページ)

「一三節 兄弟たちよ。あなたがたに知ってもらいたい。わたしはあなたがたのところに行こうとしばしば企てた。ーしかし今までそれが妨げられてきたのだがーそれはほかの異邦人の間でも得たように,あなたがたの間でも実を得るためである」(同上,邦訳79ページ)

「一四-一五節 わたしには,まさにわたし自身にとって,ギリシア人にも未開の人にも,教養ある者にも無知な者にも,果たすべき責任がある。そこでわたしの願いは,ローマにいるあなたがたにも,救いの音信を告げ知らせることである」(同上,邦訳79ページ)

以上が,この記事で扱う「ローマの信徒への手紙(以下では手紙と略す)」の部分からの引用であり,バルトによって「個人的なこと(一・八-一五)」と称されている部分の引用である。

2 パウロの感謝

それでは,上に引用されし言葉に対してバルトがどのような解釈を行っているかを検討し始めよう。

「パウロは,ローマのキリスト者たちの,敬虔さや,その他の人間の目に見える美点を神に感謝したのではなく,ただ単純にキリスト者としてのかれらの存在を感謝したのである。特別な性質や特別な行為よりもはるかに重要なのは,旗が立てられ,主の名が呼ばれ,告白され,神の国が待ち望まれ,宣べ伝えられるという事実である」(同上,邦訳75ページ)

パウロは何を「わたしの神に感謝」したのであろうか。それも「イエス・キリストによって」。バルトはその答えとして,キリスト者としての存在,とのみ答える。ローマにいる人々がキリスト教の教義について詳しいとか,キリスト教を論理的に説明することの能力に長けているとか,そういったことにパウロが感謝しているのではない,とバルトは言っているのである。

その上で,「そこに,まさに信仰が,すなわち,神の真実に出会う人間の応答真実が成立する」(同上,邦訳75ページ)とバルトは述べる。ここでは,信仰=神の真実に出会う人間の応答真実,という図式が成り立っている。「応答真実」とはいったいどういうことなのだろうか。「応答(ラテン語ではrespondeo, 不定法現在はrespondere)」とは,当然のことながら相手がいなければ行うことのできない行為である。もちろん応答をしたからといって,その応答が真実であるかどうかは,その応答の文面のみでは判断されない。そして応答をするのは人間である。神は応答しない。神はただ述べるだけである。だから,ただ「人間の応答真実」と言っただけでは,神の真実に即している保証はないのである。ゆえに,信仰=「神の真実に出会う」人間の応答真実なのだ。(そして,これは前回の記事でも書いたことであるが,イエス・キリストという真の神であり真の人を介さない信仰は,キリスト教において存在しないことに注意されたい。だからこそパウロは,「イエス・キリストによって,わたしの神に感謝する」のである。キリストなき信仰は,キリスト教信仰において無意味である。)

3 パウロの祈り

「証人の霊は,同じ啓示と発見に感動している者たちの霊から遠く離れ,無縁であることはできない。かれ[パウロ]の祈りは,かれのための仕事であると同様に,かれら[ローマのキリスト者]のための仕事でもある。かれが祈る時には,かれらのために祈る。それと同じように,かれらも戦いの手をゆるめないかぎり,かれのためにも祈る(一五・三〇)。救いの音信に注目することが,互いに会ったこともなく,この世におけるその行路が触れ合ったこともない者たちの間の連帯を作り出す」(同上,邦訳76ページ。[ ]は引用者による。)

祈りを行うものは,誰のためにあるいは何のために祈るのだろうか。自分のためだけに祈るものも,相手のためだけに祈るものも,そのどちらも祈りとは言えないのだ,とバルトは述べているのだろう。祈りは,自分に返ってくる矢印であるのみであってはならず,相手に一方通行するような矢印であるのみであってはならない。相手に届きながら自分にも返ってきて,自分にも返ってきながら相手に届くというような矢印が祈りなのである。祈りがそういうものであるからこそ,「互いに会ったこともなく,この世におけるその行路が触れ合ったこともない者たちの間の連帯を作り出す」のである。

閉じこもるだけの祈りも,開かれるだけの祈りも,どちらともそれだけでは神の意志を知ることも,神の意志に従うこともできない。なぜならばバルトによれば「神の意志は,与えられた外的状況と内的状況との,真実に実現した調和において,キリスト者に可能となった正しいことへの洞察によって知られる(一二・二)」からである。ちなみに(一二・二)というところの「手紙」をバルトは次のように意味をとっている。

「そして,この世の現在の姿にあなたがたを順応させず,かえってあなたがたの思考を革新することによって,その到来する変化に順応させなさい。それはこうして,神の意志である善いものと喜ばれるものと完全なものとの洞察を得るためである」(『ローマ書講解』下,邦訳320ページ)

4 マイナスの人間としての使徒

パウロは「共通の慰めに達するために」あなたがた「ローマ人」に会うことを「熱望している」。どうしてそのような理由によって使徒パウロは,熱望するのだろうか。それは,使徒とはプラスの人間ではなくてマイナスの人間であることに由来するからなのだ,とバルトは次のように述べる。

「使徒とは,プラスの人間ではなく,マイナスの人間であり,このような空洞が見えるようになる人間である。そのことによってかれは他の人たちにとって,何ものかである。そのことによってかれらに恵みを分け与える。そのことによって,彼らの集中と待望と祈りを強める。かれは自己を積極的に目立たせることに少しも重きを置かないからこそ,霊はかれを通じて恵みを与える。そしてその時,分け与える者は,与えれば与えるほど,おのずから受ける者となる。受ける者は,うければ受けるほど,分け与える者となる」(『ローマ書講解』上,邦訳78ページ)

使徒とは何かを確かに与える者ではある。けれども,その何かとはプラスのものではないのだ。いや,神にとってのプラスであることは間違いないのだが,人間にとっての,人間が価値判断するところのプラスではないのだ。そして使徒は人間にとってのマイナスを与えることをすればするほど,神にとってのプラスを霊を通して受け取ることになるのである。逆に,使徒の言葉を受ける者たちは,神にとってのプラスを受け取ることになるゆえに,今度は神にとってのプラスを分け与える者となるのである。与えるものが受ける者となり,受けるものが与える者となるためには,その両者によって交わされるものが人間にとってのプラスであってはならない。人間にとってのプラスを互いにやりとりするだけでは,どちらも受けることはできず,イエス・キリストを通じて,霊を通じて神の救いの音信を取り逃がしてしまうのだ。

5 パウロの義務

「パウロは義務を負わせられている(一・一)。それは,かれの個人的な願いの限界を意味すると共に,その達成の可能性をも意味する。国境も文化の限界も,かれを決してひるませないであろう。そして,もし必要とあれば,ローマの思想と宗教の大市においても,イコニオンやリストラの愚かな人たちの間でと同様,恐れずにかれの務めを果たすであろう[使徒言行録一三,一四章参照]」(同上,邦訳79-80ページ)

パウロは確かに願っている。「ローマにいるあなたがたにも,救いの音信を告げ知らせること」を願っているのだ。しかし,この願いがパウロからのみ生まれた願いであるとするのならば,この願いは果たされなかっただろう。なぜならば,おのれの身から生まれる願いというものは,義務ではないからだ。義務であれば願いは叶うのかと言われれば,必ずしもそうとは言えないだろうが,義務でない願いは叶わないということは,ほとんど真実であろう。そして,義務でない願い,換言すればおのれの身からのみ生まれる願いというものであれば,その願いは容易に「国境や文化の限界」によって,叶うことを妨げられる。妨げられるばかりかその願いは容易に破壊されるのである。

「国境や文化の限界」によって,願いが容易に破壊されるかもしれないもう一つの理由を挙げるとするのならば,それは,自らが欲する願い,自らが伝えんとする神の救いの音信が,受け手にとってあまりにも新しすぎる場合,意味不明な願いとして,受け手にとって伝わってしまうということがあるだろう。「かれ[パウロ]は,かれらにも古いことを新しいこととして語るであろう。その,よく知られていることは,この場合,いつも,すべての人にとって知られていないことであり,そのことを「ふたたび思い出す」(一五・一五)のにこれで十分だということは決してありえない」(同上,邦訳80ページ。[ ]は引用者による。)からである。新しいことを新しいふうに伝えても響かないのである。受け手にはその音信は,発信者の言いたいことは伝わらないのである。人間は歴史的動物である。あるいは人間は物語的動物である。それがゆえに,古きことを新しきことのように述べ続けるということが,神の救いの音信を伝えるためにはどうしても必要なのである。






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