クライシステオロジー, つまり危機神学 その5

この記事では, https://note.com/headphone/n/n7b0c17ef4531?magazine_key=mb749be2bfae0 に引き続く形で, カール・バルト『ローマ書講解』(平凡社ライブラリー, 上下冊, 2001年)の読み解きを行ってみましょう. 今回の記事で扱う範囲は「第一章 導入部」の「筆者から読者へ(一・一-七)」とする. ちなみに「第一章 導入部」の構成は以下のとおりである.

筆者から読者へ(一・一-七)

個人的なこと(一・八-一五)

主題(一・一六-一七)

原因(一・一八-二一)

結果(一・二二-三二)

1 本記事で扱う範囲における「ローマの信徒への手紙」の引用

まず, バルト『ローマ書講解』において検討対象となっている「ローマの信徒への手紙」(以下, 「手紙」と略記する)について, この記事で扱う範囲に限定して引用することにする. なお, この記事の冒頭に書いてある構成における, 例えば(一・一-七)というものの意味するところは, 「手紙」の第1章の1節から7節まで, というものである. (バルトは, 「手紙」を引用する際に, 時折独自に訳を改変したり, 単語を付け加えたりしているので, 本来であれば, 「新共同訳」との違いについて, 明記すべきであるのだが, その点は, 「新共同訳」の聖書を調べてもらうことで, バルトの「手紙」引用との差異を発見してもらいたく考える次第である)

「キリスト・イエスの僕, 召されて使徒となり, 神の救いの音信のために選び分けられたパウロからーこの音信は, 神が, その預言者たちにより聖書の中でその子について論じつつ, 古くから宣べ伝えさせたものである. その子は, 肉によればダビデの子孫から生まれ, 聖なる霊によれば, 死者たちの中からのかれの復活により, 力強く神の子と定められた.ーこの音信は, われわれの主イエス・キリストに関するものである. われわれは, その名の栄光のために, 救いの音信において確証されている神の真実にすべての民を服従させるために, かれによって恵みと使徒の務めとを受けたのであり, あなたがたもまた, かれらの中にあって, イエス・キリストによって召された者として存在するのであるーこのパウロから, ローマにいる, すべての神に愛され, 聖さへと召された者たちへ. われわれの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平和とが, あなたがたにあるように」(『ローマ書講解』上. 66ページ)

2 パウロ

「手紙」の著者とされている人物であるパウロについて, バルトは次のように説明している.

「「キリスト・イエスの僕, 召されて天使となったパウロ」. ここで語り始めようとしているのは, 「自分の創作に熱中している天才ではなく」(ツュンデル), かれの委託に縛られている使者である. 一人の主人ではなく, 僕であり, 王の派遣した使節である. たとえパウロが, 自らなろうとするものになったとしても, かれの使命の内容は, その究極の根拠からいって, かれの中にはなく, かれを越えた, 克服しがたい異質のものの中に, すなわち, 到達不可能なかなたにある」(上. 66-67ページ)

真の神であり真の人であるところのイエス・キリストには, それこそ人間には把握しきれないような様々な側面があるが, 王様としてのキリスト, という点でもって, キリストを捉えようとしていることは, 聖書の記述から, 不可能ではないように, 多くの人によって思われている. 王たるキリストが派遣した使節であるところのパウロは, 確かにキリストの使命を受け, その内容を実践しようとしているわけであるが, その実践の根拠をパウロ自身に求めることはできない. 時々, 私はキリストから召命を受けたので私は私の意思でキリストを信じているのです, みたいなことを言って, 自分の信仰の根拠を自分に求めようとする人を見かけることがあるかもしれないが, それはまやかしに過ぎないのである. 換言すれば, 私はキリストの派遣した使節であるということを, その私だけの根拠でもって説明し切ることは不可能であるということだ.

キリストによって召喚された者としてのパウロは, では, なにを伝えなければならないのだろうか.

「「神の救いの音信」をパウロは伝えなければならない. 全く新しく, いまだかつて聞いたこともないほど善い, 喜ばしい神の真理を人々に手渡すのである. だが, それはまさに神の真理なのだ. つまり, それは決して宗教的な音信, 人間の神性や神格化についての情報や指令ではなくて, 全く他なるものとしての神, 人間が人間であるかぎり何も知ることができないであろう神, そしてまさにそれゆえに, 人間に救済を与える神についての音信である」(上. 68ページ)

もちろんパウロはキリストの使徒として, 「神の救いの音信」を伝えなければならない. しかしその中身は決して, 人間が神になるだとか, 人間の神性を高めるだとか, そういった類のものではあり得ない. 神「が」救いの音信を告げるのであって, 人間「が」救いの音信を伝えるわけではないからだ. 人間が人間について, あるいは人間が神について語る言葉というものは, 所詮有限なのであって, その言葉の豊かさ(あるいは種類の多さ)というものも, かぎりがあるがゆえに, どこかで聞いたことのあるような言葉になってしまうのである.

キリストの, 神の言葉を聞いたというものは, 人間としては存在してきた試しはないからこそ, 「神の救いの音信」は全く新しいし, 古くから宣べ伝えられたものなのである, ということをバルトは次のように説明している.

「それ [神の救いの音信] がまさに, 神についての音信であるからこそ, 「古くから宣べ伝えられた」のであり, それだからこそ今日の思いつきではなく, 歴史の意味, その実りの収穫, 永遠の種子としての時間の果実, 預言の成就である. それは, 古くから預言者たちが語ってきた言葉であり, 今聞き取ることのできるものとなり, また聞き取られる言葉なのである. それは, 使徒に委託された救いの音信の本質であり, 同時にかれの語る言葉の保証であり, それが受ける批判でもある」(上. 68-69ページ. [ ]内は引用者による)

3 キリスト

「神の救いの音信」の中身, 本質, その言葉...それは一体なんなのだろうか?今までの説明では, その音信の語られ方や歴史性は, ある程度語られてきたように思われるが, その音信の中身は全く説明されていない. いな, 説明されているといえば, 説明されているのであるが, しかし, 説明が足りないのである. バルトは, その点を次のように書いている.

「「われわれの主イエス・キリスト」. それが救いの音信であり, それが歴史の意味である. この名において二つの世界が出会い, 別れ, 既知の平面と未知の平面の二つの平面が交わる. 既知の平面とは, 神によって創られたが, その根源的な神との一致から脱落し, そのために救いを必要とする「肉」の世界, 人間と時間と事物との世界, つまりわれわれの世界である. この既知の平面が, もう一つの別な未知の平面によって, 父の世界, すなわち, 根源的な創造と究極的な救いの世界によって切断されるのである. しかし, われわれと神との, この世界と神の世界とのこの関係は認識されることを求める. 両者の間の切断線を見ることは, 自明のことではない」(上. 69-70ページ)

救いの音信とは何か. 「われわれの主イエス・キリスト」である. 歴史の意味とは何か. 「われわれの主イエス・キリスト」である. 二つの平面つまり, われわれの世界と救いの世界という二つの平面が, 「われわれの主イエス・キリスト」によって, 交わることになるのである. 既知の平面であるわれわれの世界が, 未知の平面である救いの世界によって切断される. ここで, 既知のものが未知のものに切断されるのである, とはどういうことだろうか. 包丁で豆腐を切断する, という言葉は, 少なくとも包丁という言葉と豆腐という言葉が表している内容が, 了解されている限りにおいて意味を持つことになる. 包丁も豆腐も知らない人で, 切断するという言葉だけを知っている人は, 「包丁で豆腐を切断する」という言葉は, 理解されないのであろう. 未知なるもので未知なるものに, 既知の動作を与えるということと, 未知なるもので既知なるものに, 未知の動作を与えるということは, 同じとは言えないけれども, ともに, なんだかよく意味がわからない, という点においては同じと言えるかもしれない. 言えるかもしれないからこそ, 「われわれと神との, この世界と神の世界とのこの関係は認識されることを求める」のである. だが, この両者の間の切断線を見ること, すなわち「われわれの主イエス・キリスト」を見ることは, 自明のことではない.

では, 「われわれの主イエス・キリスト」を見るという, 非自明な事柄について, バルトはどのような解釈を, 「手紙」を読むことによって与えているのだろうか. 次をご覧いただきたい.

「イエスは「かれの死者たちの中からの復活により, 力強く神の子と定められた」. かれがこのように定められたということがイエスの真の意味であるが, もちろんそれをそのまま, 全く歴史的に規定すべきではない. キリスト, すなわち, メシアとしてのイエスは, 時の終わりである. かれは, ただ逆説(キルケゴール)としてのみ, 勝利者(ブルームハルト)としてのみ, 原歴史(オーヴァーベック)としてのみ理解されるべきである. キリストとしてのイエスは, われわれにとって既知の平面を上から垂直に切断する, われわれにとって未知の平面である. キリストとしてのイエスは, 歴史的可視性の範囲内では, ただ問題としてのみ, ただ神話としてのみ理解されうる」(上. 71ページ)

英単語のendという単語には, 終わり, という意味だけではなく, 目的, という意味もある. これはギリシア語における「テロス」という単語においても同じである. だから, イエスの真の意味を歴史的に, つまり, 無目的的に規定することはできないのである. 歴史は目的的なもののなのか, 無目的的なものなのか, ということに関する論争は, その論争が存在しているということのみを, この記事の執筆者は知っているだけなので立ち入らないことにする. だが, 終わりがあるということは目的があるということであり, 目的があるということは終わりがあるということである, ということは理解することの可能なものであるように思われる. 大学受験に合格するという目的は, 大学受験に合格するという出来事が終わることであり, 大学受験に合格するという出来事が終わったということは, 大学受験に合格するという目的が達成されたということである, という例を考えてみていただければ, 理解がしやすくなるように思われる. われわれの世界という既知の平面を, キリストととしてのイエスが未知の平面として, 上から垂直に切断するということになるのであれば, われわれにとって, キリストとしてのイエスは, ただただ問題として現れたり神話として現れたりするほかはない. つまり, キリストとしてのイエスは, 解決されるとか, 論証されるとか, そういった類の人間行為の対象とはならないということである.

4 恵み

「イエス・キリストから受けたパウロの「恵みと使徒の務め」. 恵みとは, 神が一人の人間に好意を持ち, 人間が神にあって喜びうるという不可解な事実である. それが不可解なものとして理解されるときにのみ, 恵みは恵みである. だからこそ, 神と人間との距離を引き裂くことによってそれを乗り越えるキリストからの贈物として, 恵みは復活の反照の中にのみ存在する. しかし神は人間をはるかかなたから認め, 神が人間によってその計り知ることのできない高さにおいて認識されることによって, 人間は, 人間仲間に対し「使者」として必ず関係する」(上. 73ページ)

恵みとは何か. 不可解な事実である. 恵みとは「可解な事実」でもなければ, 「不可解な非事実」でもなければ「可解な非事実」でもない. 不可解な非事実というのは, わからないということそれ自体がわからない, ということと意味において重なり合うところがある. 可解な非事実とは, 解読することが可能であるものの事実としては認めることができない, というものである. そして, 可解な事実とは, 説明可能な事実のことであり, 万人に共有することが, 言葉なりその他表現形式によって共有することが可能であるところのものである. しかしながら, 恵みとは, それらのいずれでもない. 加えて, 恵みは, 人間だけによってもたらされることでもなければ, 神だけによってもたらされるものでもない. 神と人間と, そしてその間に位置するキリストと, この三者がいることで初めてもたらされるものなのである.

人間は人間仲間に対して「使者」として必ず関係するとバルトはいう. ではどのように関係するというのか. バルトはパウロが「ローマの信徒への手紙」を書いたということに注目して, 次のように述べている.

「パウロを異邦人たちの使徒としたその同じ神は(一・一), ローマのキリスト者たちをも, 近づいた神の国のために独占的に用いた(中略)かれらの新しい前提もまた, 「われわれの父なる神および主イエス・キリストからの恵みと平和」である. この前提がいつも新しい出来事として生起するように! かれらの平安がかれらの不安となり, かれらの不安がかれらの平安となるように! このことがローマ書の初めであり, 終わりであり, 内容である」(上. 74ページ)

平安が不安となり, 不安が平安となる...そのようなものとしてイエス・キリストは, 人間に影響を与えているのである. だから, 古くから宣べ伝えられてきた言葉が, 全く新しい出来事として認識され, 全く新しい出来事として認識されていたものが実は古くから宣べ伝えられているのである, といった逆説が, イエス・キリストという「特異点」において真実として, 事実として発生しているのである.




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