批判とは? 表現とは?

こんにちは. ヘッドホンです. 今回は批判と表現について語ります. 短めに.

1 批判=理性的吟味=相手の肯定

真に「批判」を行いたいのであれば, 外部から批判することは許されない. なぜなら「批判」とは「相手の論理に従って相手の主張を吟味すること」なのであるから, 相手の論理に従わないで行うコメントは批評ではあるが決して「批判」ではないのである. 巷では盛んに批判と称した批評を行なっている輩がいるが, その方には次の言葉を差し上げよう.

悪に負けてはいけない. かえって善において悪に勝ちなさい. すべての人はそのつど支配している権威に従うべきである. というのは, 神によらない権威はなく, そのつど現存する権威は神によって制定されているからである. したがって権威に逆らう者は神の定めに反抗している. しかし反抗する者は自分の身に裁きを招く. というのは, 権力者は善行に対してどのような恐怖をも意味しないが, しかし悪に対しては恐怖を意味するからである. それゆえあなたが権威を恐れたくないのであるなら, 善を行なうがよい. そうすればあなたは権威の称賛をえるだろう. というのは, 権威はあなたの善のために神の召し使いだからである. しかし, もしあなたが悪を行なうなら, 恐れなさい. というのは, 権威は見せかけに剣を帯びているのではないからである. というのは, 悪を行なう者に対しては怒りを執行する者として権威は神の召し使いだからである. だから, 怒りのためばかりでなく, 良心のために, 是非とも従わなければならない. そのためにあなたがたは確かに租税をも払っているのである. かれら(権力者たち)は神の祭司出会って, この唯一の目的を執り行なう. あなたがたはかれらすべてに, あなたがたの払うべきものを払いなさい. 租税を納めるべき者には租税を納め, 年貢を納めるべき者には年貢を納め, 恐れるべき者は恐れ, 敬うべき者は敬いなさい. (『ローマ書講解 下』(2001)カール・バルト著, 平凡社ライブラリー, 小川圭治・岩波哲男訳, pp.413-414)

この引用の適切な理解, 実は人間には適切な理解などは不可能であるようなこの引用の適切な理解に向けて全神経を注いでいる者にしか「批判」することは許されないのである. 軽々しく現行の体制を批評する者は, 軽々しく現行の体制を追従するものよりも, 悪なのである, ということに十分注意を置いた上で「批判」を行なうがよい. そのような「批判」など人間には人間である限り不可能であることを知りながら...

2 表現は恥ずかしい?

人はなぜに表現をしたがらないのか?それは人は「表現することは恥ずべきことである」ということを本能的に知ってしまっているからである. 換言すれば「表現すること, 特に書くこととは恥である」ということを人間は無意識に知ってしまっているということである. だからこそFacebookなどにおいて投稿が少ないのであるように思われる.

特に私の友人たちの投稿は私の投稿と比べてはるかに頻度が少ないのである. 私は常日頃からなぜに私の投稿の頻度は他人の投稿の頻度に比べて非常に多いのか, ということについて考え続けていたのだが, 「書くことが恥である」ということに思い至った時, 正確にはそのようなことを述べている書物を読んでいた時に, その理由がわかったような気分になったのである. であるとするならば私は自ら進んで「恥をさらしている」ことになっているのではないか?!

それはそれで大いに結構なことである. なぜなら人は何かをされるとそれに対して何かしら返す義務感を負うことになるので, 私が進んで「恥をさらすこと」をすれば他人からも「恥をさらしてもらえる」可能性が上がるからである. 私は何も人の恥じらう姿に対して興奮を覚えるような人はではないが, 人の恥じらう姿にこそその人本来の特徴が現れるような気がしているので, その人の観察を行う時にはその人が恥じらっている姿である方が, 私にとっては有益である, ということに過ぎないのだ.

私は進んでこれからも書くことを通して「生き恥を晒していく」作業を繰り返していくことになるだろうが, どうか皆さんは私の投稿に対する返答を行っていただくことで「恥をさらしていただきたい」と思うのだ. 思うに真の友人関係があるとするならばそれは, 恥をさらし合えることがその関係を保つ必要条件の一つではなかろうか, と私には思われるのであるが, 皆さんはどのようにお考えになられるのだろうか?

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