フロマートカの言葉メモ その3

フロマートカの言葉メモのシリーズは,この記事に続いて第三弾となります。キリスト教の「現世」性を感じていただけると良いかなと,メモをまとめる私としては感じています。

フロマートカ「明日とは私たちにとって恵みの賜物であるが,裁きの賜物であることも決して忘れてはいけない。神の慈悲の現れはいずれも,人間にとって新しい機会であるが,裁きでもある。神を嘲笑うことはできない。神と遊ぶことはできない」

フロマートカ「明日への道は,神の慈悲によって定められる」

「福音は信仰を希望と結びつける。信仰を持つ者は前を見すえ,また明日のため,近い将来のため,時の終わりのための神の力に満ちた行為を待ち望む。信仰が強くなればなるほど,希望も情熱的となり,勝利に満ちたものになる。希望は信仰の不足を補うのではない。希望は信仰と共に生まれ,信仰が成長すれば希望も成長し,信仰の力が強くなれば希望も強くなる」(フロマートカ『人間への途上にある福音』新教出版社,邦訳316ページ)

「何が起きるかを推論したり, 明日や明後日のことについて無駄で無益な推測をするのは, 私たちの関知したことではない. そうではなく, 私たちは従順に自分が置かれた場所に立ち, 自分の信仰の光の中で出来事を理解し, 来る日ごとに定められた務めを行うよう, 呼びかけられている. この開放性と従順な備えの覚悟が, 真の自由と表裏一体のものなのである. これらがないところには自由もない」(フロマートカ編著『宗教改革から明日へ』平凡社, 邦訳394ページ)

「歴史には,教会や神学者たちの義務が批判や警告,叱責だけでは済まない時がある。教会も神学者も,国家および政治領域を征服した体制そのものに対して無条件に「否」を突きつけなければならない時がある。このような瞬間が訪れることは滅多にないが,しかし訪れるのである」(フロマートカ『神学入門』新教出版社,邦訳217ページ)

「神学に対する最もラジカルな批判的思考をしていたときに,私はすでに,神学は,人間の経験や,精神生活の法則や進化・歴史的進歩の法則に基づいているのではなく,反対に神学が取り扱うのは,人間のカテゴリーや方法を超えた現実なのであるということをすでに理解していた」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳16ページ)

「科学・テクノロジー,組織を有する現代文明が,幸福,福祉,進歩,平和的共存の最も高い水準に,果たして本当に人類を導いていくことができるのかとの疑いを捨て去ることができるであろうか。ある国家が武力と経済力を弱く貧しい国家に対し恣意的かつ冷酷に用いることを,誰に止めさせられるのか。神学的観点から私はこの問題に取り組まざるをえなかった。私はいわゆる西欧文明の健全性と信頼性に疑いを抱くようになった」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳62ページ)

「人類は西欧やアメリカ民主主義を模範にして発展し進化するという理念は崩壊した。教会周辺に存在していた,全世界にわれわれの世代に福音が行きわたるという願望も崩壊した。西側の人々が当惑していることは,単に資本主義政治経済体制が危機に直面しているということだけではない。西側の既存の世界観の一部が歴史の審判にさらされつつあるということが,彼らを不安に陥れているのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳80ページ)

「科学,技術,文明を身につけた現代人を肯定的に理解しなくてはならない。しかしこの現代人こそが生と死の間の深淵の上を歩いているのである。現代人は自己を破滅させ,現代人の自信が真の人間性の最良かつ最善の源泉を人間から奪ってしまう危険に直面しているのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳86ページ)

フロマートカ「歴史はキリスト教徒のためにのみ存するのでもなければ,共産主義者のためだけに存するのでもない」

「歴史の弁証法は複雑であり,「進歩的」とか「反動的」とかいったつまらぬレッテルで理解することはできない。詩人や作家,さらに聖人や神学者でさえも,人間の個人的闘争と政治的,社会的カテゴリーを超えた人間相互の関係の中で,動因,潮流,情熱を見出すのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳110ページ)

「福音を信じ,この世に参与していく者は,功績を認められるとか報賞を受けるとかいった考えを持たずに,自己に与えられた状況に取り組み,その状況を他者と共有するのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳115ページ)

「罪と赦しの究極的現実を理性や倫理や心理によって説明可能と考える者は誰であれ,人間の人生にとって決定的であるものから離れてしまい,また,人間と神,自己と他者の関係の真の原動力から離れてしまうのである。他者に対する理解は,社会的慣習もしくは最も優れた倫理的慣習の位相を超越して存するのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳118ページ)

「教会は,既成の秩序と結びつき,救済の確実な手段を備えつけた静止した機関ではない。教会は,常に動いている信徒の共同体であり,そして信徒は聖なる慈愛に満ちた神に向かって謙って行くのである」(フロマートカ『なぜ私は生きているか』新教出版社,邦訳120ページ)

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