クライシステオロジー, つまり危機神学 その2

今回は, https://note.com/headphone/n/n8440e1a3ee6a の続きとして, 危機神学=弁証法神学を創立したと言っても良いほどの天才である, カール・バルトという神学者について紹介しよう. この記事の目的は, 簡単に言えば, 人間中心主義つまりヒューマニズム(あるいはヒューマニターリズム)の否定をバルトによって行うことである.

1 カール・バルトとは誰なのか?  前期バルト

この説明においては, 藤代泰三『キリスト教史』(2017年, 講談社学術文庫)という本から引用を交えることとする.

カール・バルトとは...

「バルト(1886-1968)は初めリッチュル学派に属し, 自由主義神学の立場にあり, また宗教的社会主義(スイスのラガツ(1868-1948)やクッター(1863-1931)によって唱道されたもの)に賛同した. しかし第一次大戦下にスイスの小教会の牧師であった彼は, 自由主義的社会的福音の説教はもう当時の人々に妥当しないことを確信した. 聖書やキェルケゴール, ルター, カルヴァン, ドストエフスキーの著述によって, 彼は真実の神, 活ける神は人間的次元に見いだされる神とは全く相違しており, また哲学者によって説かれる神とも相違していることを確信するようになった. 彼は『ローマ人への手紙の註解書』(第一版ー1918年, 同書第二版ー1922年)を出版した. この第二版は, ハルナックの『キリスト教の本質』以後, どのような神学者も人々の心にこの種の感動を与えず, 人々はそこになにか新しいものが始まったことを感じた(レヴェニッヒ『教会史概論』483頁). この書において彼は, 人間は限界と被造性をもっているが, 神は絶対他者であることを主張する. キリストの生涯は十字架の死において終るが, 復活の福音は最高の奇跡であり, この奇跡によって, 知られざる神, 聖なるもの, 創造者, 救済者が自己を啓示する. 人間にとって絶望の瞬間は危機の瞬間であり, その時人間は自己の現実を知ることができ, そこに悔い改めの機会がある. 人間的なすべてのことがらに対しては否といい, 神に対しては然りという. これはバルトにおける弁証法である」(藤代(2017), 543-544ページ.)

人の人生を前期とか後期とかに分けることの是非はわからないので, ここでは議論の外に置くが, この引用によって, 前期バルトの基本的な情報は揃ったことになる.

この引用において重要なのは, バルトの記した『ローマ人への手紙の註解書』(今後はこれを全て『ローマ書講解』と略記する)の第二版の内容である. 簡単に言えば, この書物でバルトは, パウロが書いた「ローマ書」というものを忠実に読み直すことで, キリスト教における, 人間中心主義的発想は誤りであり, 徹底して神の声を聞こうとせよ, ということを訴えている. 「人間的なすべてのことがらに対しては否といい, 神に対しては然りという. これはバルトにおける弁証法である」ということである.

また, 絶望を, それも人間にとって最高の絶望を感じた時にこそ, 希望が現れるというのも, バルトの基本姿勢である. というよりもこれは, 『ローマ書』を書いたパウロの基本姿勢であると言ったほうが正しいだろう. ちなみに, キリスト教の創始者は誰と問われて, イエスキリスト, と答えるようでは, 基礎的な神学の教養がないということが, 神学者にバレてしまうので注意されたい.

『ローマ書講解』の読解を行おうとすれば, それだけで私の直観では, 4000字程度のノートが少なくとも, 10本は必要であると判断されるためこの投稿では, その読解を行うことを避けたいと思う. そして, 後期バルトのことを紹介しよう.

2 後期バルト

「彼は1931年以後『教会教義学』(四巻)の執筆を続けた. 彼はこのなかで, 教義学, キリスト教神学とは教会の行為であるという. そしてその方法論の中心に神の言をおく. すべての神学は, 神の言から起こり, 典拠としての神の言に基づき, 神の言によって試験される. 教会は, 神の言を三形態, すなわち啓示と聖書と説教によって知る. 啓示とは神の言としてのイエス・キリストである. イエス・キリストが啓示であることを, われわれはどのようにして知ることができるのか. 信仰によってである. 信仰とは, 人格的信頼, 応答(決断)であり, 体験ではない. 信仰にとって決定的なことがらは, 神自身の行為である. 聖書は教会教理の最高の基準である. 聖書によって神が, イエス・キリストにおいて人間に語る時, 聖書は神の言となる」(藤代(2017), 544ページ.)

『教会教義学』という書物は, 間違いなくバルトの主著でありながら, しかしこれは未完で終わっている. https://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%95%99%E7%BE%A9%E5%AD%A6-52457 から簡単に引用したい.

「カール・バルトの代表的著作であるだけでなく,カトリック神学を集大成したトマス・アクィナスの『神学大全』に匹敵すると評価される大著。全4巻から成り,第1巻・序説は神の言葉論と題され2分冊から成り,第2巻・神論が2分冊,第3巻・創造論が4分冊,第4巻・和解論が4分冊から成り,付録を加え冊数にして 13冊 9000ページに及ぶ。白い表紙に包まれた装丁のゆえにマルクワルトは「白鯨」と呼んだ。全訳書としては英訳があるが,日本でも訳業が進みつつある。 」

な, なんということか!『教会教義学』は原著において9000ページという長さである. これを解説する気はない. なぜなら私はこれを全て持っていないし, 解説できる気がしないからである.

さて, 『教会教義学』の要点の要点はと言えば, 神の言のみ注意せよということである. これは裏返せば, 聖書に基づかない, あるいはイエス・キリストに基づかない, 人間的神学は全て虚構である, ということになるのである. しかしバルトも間違いなく人間だから, バルトの神学も虚構ということになってしまう. だが神学者とは「不可能の可能性に挑戦する」ものなので, 神の言と比べて虚構であるという言葉は, バルトや神学者にとっては何にも影響がないどころか, 当たり前なのである.

3 バルトの波乱ーナチスドイツの関連

「バルトは賜物としての信仰を強調したが, けっしてキリスト教徒の社会的実践を無視したのではない. 1933年ヒットラーの台頭とそれに伴う教会闘争の開始とともに, 彼は告白教会の運動に積極的に加わり, 1934年の「バルメン宣言」はおもにバルトの労作であった. 彼はナチスのもとで教授職を失い, ドイツを去り, さらに1939年にミュンスター大学の博士号を剥奪された」(藤代(2017), 545ページ.)

バルトは神学者であったが, それは牧師でなかったことを意味しない. バルトはれっきとした牧師であり, 牧師であることを忘れたことはなかっただろう. バルトはちなみに, ヒトラーへの忠誠を確かめる声明において「キリスト教の信仰の範囲内において」という趣旨の但書をつけたため, ヒトラーの逆鱗に触れて, ドイツをさることになったらしい.

今回はここまでとする. 次回以降で, ようやっと『ローマ書講解』の簡単な解説をすることになるだろう. そう言えば, ヨゼフ・フロマートカという, これまた天才的な神学者がいるのであるが, そして私はフロマートカの話をしたいのであるが, 何本の記事の後に, フロマートカが登場するのかわからない...

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