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「卒業論文」と「後輩」について。

前回noteでは、大学生のころのぼくは、
ダメ学生ではあったけれど、それでも、
全く何も学んでいなかった、
というわけでもなかった。
みたいなことを書いたのですが。
かと言っても、それでもやっぱり、
じぶんはいろいろダメ学生で、
そのなかでも、いちばんダメだった、と、
今でも思い出すと、申し訳ないと思うことがある。

それは、卒業研究のことでして。

卒業研究ではさ、昨日も書いたのですが、
先生のアイデア、すごい!
というのも感じたりしながら、でも、
休んだりさぼったりしてしまって、
先生や研究室のメンバーたちへも、
迷惑かけながら、それでも、なんとか、
先生の指導のおかげで卒研の論文も書けて、
大学卒業することができた。

そして、でも、
卒業から数か月後、研究室の後輩から
「鈴木さんの卒業研究を引き継ぐことになったのですが、
 研究のデータって、ありますか?」
と連絡が来たんだった。
ぼくは当時、じぶんのコンピュータを持ってなくって、
卒業研究の作業は、すべて、
先生のノートPCを借りておこなっていたので、
その中にデータはあると思う。
という旨を後輩へ伝えたのですが、
そのなかにも、データ、無かったらしい。。。

「卒業論文」について、
内田樹さんは、
【卒業論文は、レポートとは性質が違うものである。】
とおっしゃっている。つまり、
授業課題の「レポート」の場合は、
たいてい教師ひとりしか読まない。
なので、嘘を記したり、ネットからコピーしたり、
読んでいない本を読んだことにして書いたりしても、
教師ひとりが見落せば、高い評点をもらえる可能性がある。
「レポート」はそうであったとしても、
「卒業論文」の場合は、それとは違う。
と内田さんはおっしゃいます。

「卒業論文」とは、「学術論文」であり、
生涯で一度きり書いた「論文」だったとしても、
それは、「万人」が読者であることを意味する。
たとえば、データの数値が間違っていたり、
引用文献の書名が間違っていたり、事実誤認があったり、
論理的に筋道が通らないことが書かれていた場合でも、
その文章は、教師ひとりだけでなく、
他の誰かが読むこともありうる。

だから、論文の読者が「万人」であるということは書き手にそれなりの緊張感を求める。けれども、それは必ずしもストレスフルな緊張感には限られない。諸君には
「君たちと同じテーマで卒論を書くことになった、何年か先の内田ゼミの後輩」を想定読者に論文を書いて欲しい。それならどう書いていいかわかるはずだ。
(内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」2020-09-03『反知性主義者たちの肖像』より引用です。)

授業の課題におけるレポートならば、
たとえどう書いたとしても、
ぼくの成績が悪くなるだけ、ではあるけれど、
卒論の場合はそうじゃあない。
そのときには、ぼくの後輩たちにも、
迷惑がかかることがある。

そういうようなことをね、
当時のぼくは、まったく、
なんにもわかっていなかった。

大学卒業して約20年が経ち、
大学生のときのことを振り返れば、
じぶんはほんとうにどうしようもなかった、
と思うことはたくさんあれども。
このことはさ、それらのなかでも
いちばんよくなかった、
って、今でも、思うのよね。

「勉強」というのは、
じぶん自身の利益を増大させるためでなくって、
他人へとパスを出すように。
みたいなことを、あらためて、
この経験を振り返りながら、考えたいっす。

令和4年2月18日

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