第52回 誠に見事な答えかた。
【『喩としての聖書−マルコ伝』という吉本隆明さんの講演を、すこしずつ聞いて聞いて聞いてゆくシリーズ、だい52かいめっ。】
こーんにちは。ではでは、、、
同時に、あの、それは。その共同体を治めるね、資格がある能力がある資格があるそういう人だけが、謎々、諺、そういうものをわかる。って言う、わかったんだと。(チャプター10 / 謎々がわかることは信仰が篤いこと_6:11〜)
前回noteからのつづきで、古代の時代においてはねー、
で、それは。諺、謎々がわかるとか、すぐにわかるっていうことはね、それは、信仰が篤(あつ)いことを。つまり、神の御託宣(ごたくせん)ってのはね、心ってのは、すぐにわかる、ってことを意味しましたし。そのことは同時に、
という、ここでの「御託宣」とは「神の心」と吉本さんおっしゃっておりまして。このMacの漢字変換辞書で見てみると「神のお告げ」のこと。
つまり、「なぞなぞ」や「ことわざ」や「喩」が「わかる」ということは、「神のことばがすぐにわかる」ことを意味して。
また同時に、
ある共同体をね、実際に政治的に治めるってことの能力がある。ってことを意味していた、ってことがあるのです。それは、実際問題としてもあるのです。
「共同体を治める能力がある」ということ。。。
だから、あの、ここのところで。あのつまり謎々のように、こどもを。まずこどもに飽(あ)かせるべきじゃないか、と。それでそのあとで、それで、こどもに飽かせない前に犬にパンくずを、こどもにやるパンをやっちゃったら。やる、ってのはよくないことじゃないか。って言うふうに、
そして、以前「第49回」のところで聞きましたイエスの言った「まず、こどもに飽かしむべし。」ということばとは、
そういう言いかたをした、メタファーで言ったんですけど。言いかたをしたらば、
メタファー(暗喩)で言ったのだけれども。そのように言うと、
それに対して、あの。答えた母親のほうは、答えかたは、いや食卓の下に犬が居る。と。そしてその場合に、こどもがパンを食べている、と。そのこぼれ落ちたくずを犬が食べるってことはあるでしょ。って言うふうに答えた。そうすると、
母親は「いや、食卓の下に犬が居て、こどもの落としたそのパンくずを犬が食べることはあるでしょ。」って答えた。
そーすると、
その答えかたは、メタファーとして誠に見事な答えかただ。っていうふうに、あの、言うことで。イエスが、おまえは信仰がある。っていうふうに判断したってことになるわけです。
「その返答は、誠に見事だ!」と言うことで、イエスは「貴女は信仰がある。」と判断した。
だから、おまえはもう治った、と。信仰があるんならばもう絶対治った。だから、行ってごらん。って言うと。行ってみれば、こどもはもう悪鬼に憑かれて狂ってたのが、治っちゃった。と、こうなっているわけです。
「だから、もう治ったよ。こどものところへ行ってごらん。」とイエスは言い、母親が行くとこどもはちゃんと治ってた。と、聖書ではこのように描かれている。。。
なんだかさ、「宗教」がどうかは別にして、なにかが「治る」ってのは、「メタファーがわかる」ことと関係が深いのかもしれない、って聞いていてちょっとおもいました。
そいじゃあ、このつづきは次回noteで〜!!!!
平成28年7月30日
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