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「さみしさ」が増えてゆくこと。

10代ぐらいまでのころならば、
ある有名人が亡くなった、というニュースを
テレビで見かけたとしても、
いっしょにテレビを見ている母が、
え、この人、亡くなったの?
って言ったとしても、ぼくはさ、
その有名人の方をよく知らない、
という場合のほうが多かったとも存じますが。

ぼくも現在、40歳となって、
「有名人の方が亡くなられた。」
という訃報のニュースを聞けば、その方とは、
お名前を存じているだけに限らず、
こどものころからテレビで観ていた方、
少年時代や青年時代から音楽を聴いていた方、
などなど、そのような方々が
亡くなられる、というのは、やはり
幼かったころと比べれば多くなっていて。
それにともない、
さみしい、と感じることだっても
多くなってきた、って思われる。

おそらくはそれもそのはずで、つまり、
3年前にはぼくの父が亡くなり、
ぼくの母も齢を取り、
このぼくだってもいつのまにやら、
再来月で41歳にも成るんだから。

そう思うとすれば、
おとなになる、とは、こういうような
「さみしさ」が増えることなのやもしらない。

これからも、
月日が重なれば重なるほどに
「さみしさ」が増えてゆくのか、と、
あたまで想像してみても、でも、まだ
リアルな想像としては映っていないけれども。
ぼくもだんだん老いながら、そして、
いつか亡くなる、
ということをね、どことなく
じぶんの中で思い始めているような気もする。

この「さみしさ」の気持ちからは、
逃れられないんだとしても、それが、
人間というものであるとするならば、
この「さみしさ」の中で、
ぼくは、祈りたい。。。

昨日1月17日には、
このようなことを考えておりました。

祈ろう。祈ろう。

Everything's gonna be alright!

令和5年1月18日


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