表紙5

第15回 誠に見事な「人間性」の洞察。

前回noteよりつづきまして、ほんじつも、吉本隆明さん講演『喩としての聖書−マルコ伝』をゆっくりじっくり聴いてまいりますっ。第15回め〜。】

昨日の回ではね、新約聖書・マルコ伝14章「最後の晩餐」という場面でのことは、吉本隆明さん仰るには「誠に見事な洞察」であるのだと。ていうのも、、、

つまり、「同信者」「同胞者」、あるいはマルクス主義で言えば「同志」ってことなんですけれども。つまり「同志」っていうのは何なんだ? って言った場合に、(チャプター4 / 聖書の思想のいちばん大切なこと_8:47〜)

おなじものごとを信じる者たち、「同信者」「同胞者」「同志」とは、いったい何なんだ? を考えた場合、

新約書の認識っていうのは、誠にリアルであるし、誠に見事に人間性っていうのものを見事に洞察していますし。また、

「新約聖書」の認識というのは、まことにリアルであり。「人間性」をまことに見事に洞察しておって。また、

けっしてそこで、人間性っていうものに対して幻想を抱いたり。同じ信者だから、同じことを信じてんだから、それだから、その人を信じられるとか、そんなことはありえないんだよ。

「人間性」に対して幻想をいだいてもおらず。(ここでの「人間性」とは、「人間の本質」のようなことなのかな?!) そして、同じことを信じている人間同士だからと言って「その人を信じることができる。」というのは、ありえないこと。。。

人間っていうのは、もともとそういうふうにはできていないんだよ。っていうことをよく知っているわけです。知ってるってことを、主人公・イエスを通じて、その、マルコ伝の著者っていうのはよくそのことを述べているわけです。

「人間は、もともとそういうふうにはできてない。」ということを、「マルコ伝」の著者のかたはよく知っていて。主人公・イエスを通じてそのことについてよく述べている。

この洞察は、不朽の洞察であって。つまり、人間が存在する限り、現在でももちろん通用しますし。みなさんのあいだでももちろん通用するわけですし。それは誰にとっても通用する誠に見事な認識であるわけです。

これは、不朽(いつまでも朽ちることのない)の洞察である。つまり、現在のぼくらのあいだでも通用するような、誰にとっても通用する誠に見事な洞察である。と、吉本さんおっしゃいます。

なんだか、おはなしが、すんごいことになってきているような気がするけれども。この講演のつづきはねぇ、次回noteで聴くです〜。

2016年6月23日



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