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「食べる」と「排泄する」の事情。

生きるのに重要なことは、
「食べる」だと思う。

「食うために生きるか、生きるために食うか」
という問いかけもあると存じますが、
そのどちらのほうだったとしても、人間は
日々、食べ物を食べなければ生きてゆけない。
それは、今の時代でも、
かつ、過去の時代でも、つまり、
江戸時代でも、平安時代でも、石器時代でも、
その以前の時代でもずっとそうだった。

今の時代ならば基本的にはお金があれば、
それはでも、災害や戦争等が無ければ、
という注釈はつくとは存じるのですが、
お金があれば食べ物を購入することができる。
そうじゃない時代では、たとえば
平安時代には食べ物はどうしていたんだろうなあ。
過去には、狩猟採集より農耕牧畜へと
社会が移って行ったと言われているけど、
この社会の変化によって、人間の食べる
食べ物はどのように変化したんだろうか。

そのような生きるのに重要なことは
「食べる」だけでなくって、
「排泄する」もそうだと思える。

「食べる」と「排泄する」は
密接に繋がっている。
というふうに考えるとすれば、
時代時代において、はたまた
狩猟採集より農耕牧畜へと社会が移ったことで、
人間の排泄する便も変化したのやもしれない。
そしてまた、時代時代において
トイレも変化していったんだろうなあー。

みたいなことを考えながら思うのはね、
「食べる」のに大切なのは
「歯」なのだと思うけど、そんな人間の
「歯」って、案外弱いようにも思える。
つまり、現代では、
歯ブラシもいろいろなものがあり、
歯科の医療もとても発達しているとしても、
虫歯になってしまうときはなるのだし、
「8020運動」と言われるような、いわゆる
「80歳」で「20本」以上の歯を残すことも、
そのような運動を介さなければ、
むつかしい、と言えるのでしょう。

ならば、過去の時代では、
現代のような歯ブラシ及び
歯科医療も無いんだともすれば、
現代よりももっと大変だったと思われる。
そんなにも重要な人間の「歯」が、
強そうに見えて案外弱い(脆い)というのも、
世代世代において、生物学的に
もっと強く進化してゆけば良いのに。。。

そして、もうひとつ
人間の中で弱い箇所と言えば、ぼくは
「痔」を持っているんだけれども、
そんなぼくが申しあげるとすれば
「肛門」だなあ。
人間が生きるのに重要なことのひとつが
「排泄する」なのだとして、
そんな排泄の際には、必ず
「大便」は「肛門」を通る。

汚い話しで申し訳ないですが、
じぶんのなかでは大事なことだと思うので、
もうすこしだけ文章をつづけたいと存じます。

食べ物によって、もしくは体調によって、
排泄する便も違ってくるとも思うですが、
できれば、「肛門」に対して
負担の少ない便を排泄されられたい。
でも、それもなかなかむつかしいし、
また、そんな重要な「肛門」も
身体において非常に重要なわりには、
その人の体質的なこともあると思うけれども
人間の皮膚として、めちゃくちゃ強いわけでもない。
ともすれば、現代ではなく、
過去の時代の人々は、
肛門事情及び痔事情について、
どのようになされていたのでしょうか?

「食べる」と「排泄する」の行為とは
密接に繋がっているとして、
「歯」は一番最初の入口であり、
「肛門」は一番最後の出口であり、
じつは、どちらも弱いとも言える。
ならば、どちらも大切にできたら。

「食べる」と「排泄する」と合わせて、
さらにもうひとつ生きるのに重要なのは
「寝る」だと考えられる。
過去から現代までのいつの時代でも、
どんな場所でも、どんな状況でも、
人間は寝て起きて暮らしてきたんだろう。
そんな人間の睡眠事情も、代々、
どのように変化してきたものか。

ここからさらに考えようとするならば、
戦地での兵士たちも、そして
戦地での市民の方々も、
飲食と排泄と睡眠が行われている、
と想像はするけれど、それがどのような
飲食や排泄や睡眠であるかは、
ぼくにはわからない。
戦地だけでなく、
自然災害における被災地でも、
飲食や排泄や睡眠は、とても
大変なことだと思うだけでも、
普通に暮らす有り難さを実感することができる。

レキシの『狩りから稲作へ』での
足軽先生(いとうせいこうさん)のラップパートでは、
【忍び寄る恐怖 冷えと飢え】
と歌われているけれども。
『狩りから稲作へ』で歌われる
縄文時代及び弥生時代だけでなく、現代の時代でも
「冷え」と「飢え」は恐怖だと思える。

係はかがり火 燃してる♪ 燃してる♪

令和6年3月17日