信じかたテキスト3

第18回 どう信ずるか?!

【げんざい、吉本隆明さんの講演『喩としての聖書−マルコ伝』をゆっくり少しずつ聴くシリーズやっていますー。】

前回noteの最後にね、次回よりつぎのチャプターへすすむよと書いたけど。なんだか前回の講演のところをもうちょっと考えてみたいとおもったので、先へすすまずに、こんかいのnoteを書いてみます。

それはさ、吉本さんおっしゃってた「信ずる」のことなんだけども。

たとえばぼく自身で申しますと、ぼくは、宗教は無宗教のようなもので。えーと、たしか父方のほうの親戚は「浄土真宗」だったと思うので、そーいう血(って言うのかな?)は流れてるのかもしれないけれど。んでも、仏教のこととか、まるっきり知らない。。。

そして。

ぼくがいま講演で聴いております「聖書」や「キリスト教」のことだって、ぜんぜん存じない。ほかの宗教のことだっても、知っていることはほとんど何も無いぐらいに無知なんだけど。

じゃあ、ぼくは、なにかを信じているか?! って言えばたぶんなにかは信じてると思う。そーいうときのぼくの「信ずる」というのはさ、どうなんだろう? ってのをちょっと思って。

吉本さんおっしゃる「肉体を信ずるような信じかた」をしていないだろうか??? と。

うーんと、なんだろう。たとえば本を読んだり、とか、師より話を聞く、というのもあるのかな。えーっと、たとえば「宗教」ということばには「教え」という字が含まれているからさ、つまり「教え」全般に「信ずるかどうか」は関係してる。かもしれない。

「教え」、つまりそれは「ことば」と言ってしまってもいいのかな。そのようなたとえば「誰かからのことば」を、「信ずる」にしても「信じない」にしても、「まったく信ずる」と言うのも「まったく信じない」と言うのもなんだかちょっとちがう気がしていて。

ぼくは「宗教」のことはよくわからないのでなんとも言えないんですが。たとえば「出家」や「帰依」や「崇拝」や。また、じぶんに関連するところで言えば、「師事」や「教示」や「学ぶ」というのだっても、どうしたらよいものか??!

それは、たぶんだけれど、「どう信ずるか?」のことが大事のような気がしているんだよね〜。答え、みたいなものはぼくは持っていないので、こう、ていうのは言えないんだけども。。。

2016年6月26日



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