第17回 本当の信じかた
【吉本隆明さんの講演『喩としての聖書−マルコ伝』をすこしずつ聴くシリーズやってます。だい17かいめ。前回noteはこちらです〜。】
昨日のつづきを、さっそく、、、
で、あの、僕はそういうイヤなことばっかり言っているように思われるかもしれないけど。まさに、「聖書」っていうのはね、「新約書」っていうのは、イヤなことばっかり言っているわけですよ。それが「聖書」の思想のいちばん大切なところだ。っていうふうに僕には思われます。(チャプター4 / 聖書の思想のいちばん大切なこと_10:57〜)
「聖書」とは、「新約聖書」とは、イヤなことばかりが描かれていて。それが「聖書」の思想のいちばん大切なところだ。と、吉本さんには思われる。
と、ここがさ、このチャプター4の「聖書の思想のいちばん大切なこと」というタイトルのところなのねぇ。
そして、
つまり、まさに「同信者」とか「同志」とかそういうものでも、最後に人間っていうものはギリギリに追い詰められて行った場合には、
たとえ同信者(同じことがらを信じる者同士)であっても、人間とはギリギリに追い詰められてゆけば、
そこで互いに背反したり、矛盾したり、裏切ったりする。っていうことはありうるんだよ。
おたがいに、背反、矛盾、裏切り、はありうること。なので、
って、そういうふうにして。だから、もし「信ずる」ってことだったら、「人を信ずる」とか、「何かを信ずる」ってことがあるんならば、そういう「信じかた」をしちゃダメだよ。つまり、どう言ったらいいんでしょう、つまり、
もしも「信ずる」ということがあるのなら、そーいう「信じ方」をしてはいけない。つまり、
肉体を信ずるような信じかたをしたらダメなんですよ、それは、本当の信じかたじゃないんですよ。っていうことを言ってるんだ。っていうふうに、あの、理解すれば、できると思います。そこは、たいへん重要なところではないか、っていうふうに思われます。
肉体を信ずるような信じ方をしたらダメなんですよ。
‥‥というその吉本さんおっしゃる「肉体を信ずる信じかた」というのは、どーいうことだろう?! って考える。うまく言えないけれど、なんだかわかる気もする、けども、でも、よくわからない。意識のしかた、想いかた、みたいなことなのかなぁ???
そーじゃない「信じかた」をできるようで在りたい。。。
では、そいでは。今回で「チャプター4」は終わりましたので、次回よりつぎのチャプターへ入ってゆきます。どーぞ、よい週末を!!
2016年6月25日