表紙17

其の七十 カラマーゾフの兄弟

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

世界の国から、こんにちは。こうえんを、きこう。

前回noteでは、「その問題を考えるまで到達した作家っていうのは、ただひとり。僕の知ってる限りでは、横光利一っていう小説家ですけど。つまり、なんとかして日本の文学をヨーロッパ並みにしようと思うならば、純文学であるそれをすこしも水準を低下させずなお物語の起伏の多い小説を、日本でも書けないものだろうか。と、日本で初めて自分の実力として当面した唯一の人です。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

つづきを、きこう。。。

えー、この人は、その当時の言いかたで言えば、純文学にして通俗小説っていう言いかたで。(チャプター11 / 芸術の価値_13:40〜)

「この横光利一は、当時の言いかたで言うならば、純文学にして通俗小説。という言いかたで。」

それで、あの。今の言いかたをすれば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、これ純文学で。こう非常に奥の深い小説だけど、同時にこの筋も面白いよ。っていう。

「また、現在の言いかたをすれば、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は純文学として非常に奥の深い小説だけれど、同時にストーリーもおもしろい。という。」

‥‥そーいえば、この「純文学」ということばってよく聞くけれど。改めて、どーいう意味だろう?! と思って調べたら、

【純文学(じゅんぶんがく) 〔通俗文学・大衆文学と違って〕多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られている文芸作品。】(新明解国語辞典第六版より。)

とのことだそうです。

筋も起伏があり、なかなか面白いよ。っていう、両方の要素を持って、持っていて、それでまあ最近たくさん読まれているそうです。

「その両方の要素を持っていて、さいきんもたくさん読まれているそうです。」

僕はさ、もちろん、って言っちゃああれだけど『カラマーゾフの兄弟』を読んだことないけれども。えーと、村上春樹さんのエッセイや小説のなかで『カラマーゾフの兄弟』のことが登場していたりして、いつか読んでみたいなぁ、とはおもっているー。いつか。たぶん、今はまだ読めない。。。

講演をつづけます。

それが、どこで読んでいるのか? っていうのは、それぞれがどちらでも読めるわけです。筋のこの見事さって言う、つまり、指示表出の見事さって言う箇所でも、場所でも読めます。読んでも、優れた小説ですし。

「どのように読んでいるか? というのは、純文学としても大衆小説としても、どちらでも読めるわけです。すじの見事さ、という箇所でも読むことができますし。」

あの、その。本当の芸術の本質はここだ、っていう。樹木で言えば、枝葉抜きにしてそれで幹に一番近いところで。幹とほとんど同じじゃないか、っていうその自己表出の面が、芸術の本質だとすれば。その芸術の本質としてもこの『カラマーゾフの兄弟』は読める、と。

「芸術の本質である自己表出の面としても、読むことができる。」

つまり、おまえどこで読んでるんだ? って言うことをまあ訊ねてみれば、一概にこれはどうだ、ってことは、一概に言うのはおかしいんだよ、っていう。あの。そういうことは、すぐにわかります。

「つまり、この『カラマーゾフの兄弟』をどう読んでいるんだ?! とたずねてみて。一概にどうだ、というふうには言えなくて。」

すぐ、その論議自体は意味をなさない、本当は意味をなさないですよ。って言う意味で言えば、って言うことはよくわかります。

「このような『どう読んでいるのか?』という論議自体が、ほんとうは意味をなさないのです。」

うーんと、やっぱりちょっとむつかしいんだけれど。小説を、どのように読んでもよい、って言うようにおっしゃてるようにもおもえたの。それじゃあ、このつづきは次回noteで〜!!!

平成28年10月23日




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